観とは何か。観とは法に対する観察と伺察であり、その後判断を下し結論を導くことである。この過程が完結する時、意識から観が始まり、次第に深まり、心念が専一となり禅定が現れる。ここまでが初歩的な観であり、まだ表面的で粗雑な段階である。仮に結論が出たとしても、それは意識の粗い結論に過ぎず、細部まで行き届かず、内心に未解決の疑いが残る。これは意根の疑いであり、つまりこの結論を意根がまだ明らかに理解し受け入れていないことを意味する。さらに観を進め、心念がますます専一となり、禅定が深まるにつれ、意識の作用は次第に小さくなり、意根の観察思量作用が大きくなる。最終的に意根の智慧が判断を下すに足る時、意根が真実の理にかなった結論を導く。これこそ真に疑いを断ち切った状態であり、法を証得したのである。これは意識と意根が協調して共に観を行った結果である。
観行四念処において、まず修習すべきは身不浄観である。身観は呼吸観から始める必要がある。具体的な観方は経典に詳述されており、その観行手順に従って一歩一歩実践すれば、呼吸と身根の状態をありのままに観察できる。例えば今まさに吸気している時、吸気がどこから入ってくるかを知り、気体が鼻孔を通って入り、鼻腔を経て肺に入り、さらに丹田に至る過程を観察する。呼気時には気がどこからどこへ運行するか、気がどこから出ていくか、息が長いか短いか、冷たいか温かいか、身体の覚受はどうか、これらを明瞭に観察する。心念が清明な時、呼吸が深いか浅いか、長いか短いか、気の運行がどこまで及んでいるか、どの部位が詰まっているか、息がどのように排出されるかを知る。これが観であり、意識を主体とする初歩段階である。
観の過程において心念が専一になれば定が生じる。全ての精力が呼吸観に集中し、他の問題を思慮することを止めるため、心中に雑念がなくなり心が安定する。定を得た後も観を保持し続け、内心で呼吸への知を保ち、現在観じている法に対し常に知を働かせる。もし明瞭な知がなければ、心が散乱しているか昏沈している証左である。知は智慧を表し、この知があれば徐々に我見を断つ智慧が生じる。
知と同時に定があり、内心が清明であれば慧が生じる。定慧が等しく保たれる時、空の智慧が顕現する。観が一定の域に達すれば、呼吸が生滅無常であり身体が生滅無常であることを認識し、智慧が生まれる。これは意根の智慧である。意識の智慧は早くから呼吸と身体の生滅無常を知っていたが、その知は決定的な作用を及ぼさない。観を究め意根の知に至って初めて決定的な作用を発揮し、真の智慧となる。内心に知を保持し続ければ、時を経て功が深まり智慧が生じ、法の実相を見ることができる。この知は無明の知から有明の知へと転換するのである。
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