衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2021年05月12日    水曜日     第1 回の開示 合計3391回の開示

観行の過程は止観双修の過程である

観とは何か。観とは法に対する観察、伺察であり、その後判断を下し結論を導くことである。この過程が完結する場合、意識から観を起こし次第に深まり、心の念が専一となり禅定が現れる。ここまでが初歩的な観であり、まだ表面的で粗雑な段階である。結論が出たとしても意識の粗い結論に過ぎず、細部に至らず内心に未解決の疑いが残る。これは意根の疑い、つまりこの結論を意根がまだ明らかに理解し認めていない状態を指す。さらに観を進め、心の念がますます専一となり禅定が深まるにつれ、意識の作用は次第に小さくなり、意根の観察思量作用が大きくなる。最終的に意根の智慧が判断を下すに足る段階に至ると、意根による如実如理の結論が導かれ、真に疑いを断つに至る。これが法を証得する瞬間であり、意識と意根が協働して観を行った結果である。 

観行四念処において、まず身の不浄を観ずる修習を行う。身を観ずるには呼吸観から始める必要がある。具体的な観法は仏経に説かれており、その観行手順に従って忠実に段階を踏めば、呼吸と身根の状態を如実に観察できる。例えば今まさに吸気している時、吸気がどこから入ってくるかを知り、気体が鼻孔を通って入り鼻腔を経て肺に至り、さらに丹田に入る過程を観る。呼気時には気がどこからどこへ運行するか、気がどこから出るか、息の長短・冷熱、身体の覚受などを明瞭に観察する。心の念が清明であれば呼吸の深浅・長短、気の運行箇所、どこが詰まっているか、息がどのように排出されるかを知る。これが観であり、意識を主体とする初歩段階である。 

観の過程で心の念が専一になれば定が生じる。全ての精力が呼吸観に集中し他の問題を思慮せず、心中に雑念がなければ心は定まる。定を得た後も観を保持し、呼吸に対する知を内に保ち、現前の観ずる法に対し内心で知を維持する。明瞭に了知できない場合は心が散乱しているか昏沈している証左であり、知は智慧を表す。この知があれば次第に我見を断つ智慧が生じる。 

了知と同時に定があり、内心が清明であれば慧が生じる。定慧が等しく保持されれば空の智慧が顕現する。観が一定水準に達すれば呼吸が生滅無常であること、身体が生滅無常であることを認識でき智慧が生じる。これは意根の智慧である。意識の智慧は早くから呼吸と身体の生滅無常を知っているが、その知は決定的作用を持たず、観の究極で意根の知こそが決定的作用を発揮する真の智慧である。内心に知を保持し続ければ時を経て功が深まり智慧が生じ、法の実相を見ることができる。この知は無明の知から有明の知へと転換する。

——生如法師の開示
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