大慧、何の故ぞや。外道は因を説くに、縁より生ぜずして、生ずる所あるを説く。世尊は説きたまわく、因を観じて事あり、事を観じて因あり。かくの如く因縁は雑乱し、かくの如く展転して窮まりなし。
釈:大慧菩薩は申し上げた。何故外道の説は仏陀の教えに合致しないのでしょうか。世尊よ、外道は五陰が生じる因について、生じる様々な縁(種子・業種・業縁等)を含まず、何らの縁もなく、神や霊魂によって五陰が生じると説きます。しかし世尊は「因を見れば必ず事が生じ、事の発生を見れば必ず因がある」と説かれます。このように因と縁が絡み合い、際限なく連鎖するなら、混乱を招くのではないでしょうか。
仏、大慧に告げたまわく、我は無因説に非ず、及び因縁雑乱の説に非ず。此あるが故に彼ありとは、摂する所摂するは性に非ず。自心現量を覚知せよ。
釈:世尊は大慧菩薩に答えられた。私の説く因縁法は無因論ではなく、また乱雑な説でもない。私が説く因縁法において、次の法を生じる因と生じられた法は、いずれも自性を持たず、真実の法ではない。例えば無明が行を縁じ、無明が身口意の行を生じる場合、無明がある故に行があるのは仮の法であって真実ではない。真実に身口意の行を生じるのは別の真実の因(如来蔵)による。
行が識を縁じ、身口意の行がある故に六識が生じるのも仮の法である。六識を生じる真の因は他にある。識が名色を縁じ、六識がある故に名色が生じるのも仮の法であり、名色を生じる真の因は六識ではない。十二因縁は全てこのような仮法であって真実ではなく、真実の因はこれらの中にはなく、因縁を超えている。一切の法の生起存在は全て自心の現じたるものであり、自心現量であることを知るべきである。自心こそが一切の因縁法を生じる根本因、即ち如来蔵である。
大慧よ、若し摂する所摂するを計著し、自心現量を覚らざれば、外境界の性は性に非ず。彼らは此の如き過失あり。我が説く縁起に非ず。
釈:世尊は続けられた。大慧よ、もし十二因縁法において、次の法を生じるものと生じられた法を実体あるものと執着し、自心の現じたものでないと考えるなら、無限の過失を招く。自心の外にある一切の法は自性を持たず、互いに生じ合うことはない。無明が行を生じず、行が識を生じず、識が名色を生じず、名色が六入を生じず、六入が触を生じず、触が受を生じず、受が愛を生じず、愛が取を生じず、取が有を生じず、有が生を生じず、生が老死憂悲苦悩を生じない。真実は、これらの因縁法が全て自心によって生じ現れたものである。外道の説く因縁法には多くの過失があり、私の説く縁起法とは異なる。
我常に説くが如く、因縁和合して諸法を生ず。無因に生ずるに非ず。
釈:私は常に説いている。因縁が和合して初めて一切の法が生じる。因は自心如来蔵であり、縁は多種存在する。例えば無明の縁には業縁・父母縁等がある。因縁が和合して初めて各種の因縁法が生じるのであり、無因で縁のみでは生じない。如来蔵がなければ無明だけでは衆生の身口意行は生じず、如来蔵がなければ身口意行だけでは六識は現れず、如来蔵がなければ六識だけでは名色は生じない。
如来蔵がなければ名色だけでは六入は生じず、六入だけでは触は生じず、触だけでは受は生じず、受だけでは愛は生じず、愛だけでは取は生じず、取だけでは三界の有は生じず、有だけでは生命体は生じず、五陰だけでは老死憂悲苦悩は生じないのである。
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