白骨観や不浄観を修めることで苦を滅することができる。自らの三十六物を観じる時、観ずる箇所は自然に緩和される。観ずる対象への執着が薄れ、心が捉われなければ、自然に緩むからである。故に身体の問題は究極的には心の問題であり、心を整え空じれば、多くの問題は解決する。仏道を学ぶ者が日常を縁に任せ刻意に求めず、選り好みせず、執取しなければ、日々は軽安自在に過ごせる。いずれも良し、何も拘らず、万縁に随い、一心に道に在れば、いかなる苦受があろうか。何故悟りを得た者は如何なる生活状況にあれ、心に苦なきか。五蘊世間が空であることを知り、執取せず、縁に随って用い、有れば用い、無くとも拘らないからである。
我々の身心に感じる苦は、全て意根の執取によって生じる。執取しなければ苦受はない。心の結び縛りは全て執取から生じる。結縛とは縄の如く、結縛あれば滞り通ぜず。執取なき時、心境は広々と通達し、天地を貫き、我が意のまま。苦受を受ける時は、自ら何を執取したかを省みるべきである。一切の苦には因があり、因を見出し解決してこそ、苦果を滅する道が開ける。
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