問:座禅時に自然呼吸する場合、身体を制御しているのは誰ですか?
答:自然呼吸時には意根が主導しておらず、ましてや意識が主導しているわけではありません。不自然な呼吸は意識と意根が制御しており、自主的な呼吸は意識が制御・主導しています。身体自体の生命活動の多くは如来蔵が一手に操作しており、時には意根が制御することも、意識が制御することもあります。ただし意識の制御は実際には意根に影響を与え、意根に制御させているのです。自然の働きは我々が感知できないため、必ずしも意根が関与しているとは限りません。
問:座禅後に生命をより輝かせることはできますか?
答:生命をより輝かせようとする思想があるなら、それはまさに重い我見ではありませんか。我の思想があることは即ち生死の苦ではありませんか。五陰の生命を我と見做し、五陰身を喜び楽しみ、五陰身に愛着し、五陰身を継続させようとする執着心が生じれば、集を断ち苦を滅することができず、生死の苦悩は更に重くなり、修行に逆行します。苦集滅道の四聖諦をよく学ぶべきで、まず苦を観ることから始めなければなりません。苦を知って初めて修道心を発起し、道に入ることができるのです。実際に呼吸を観じる修行を始めれば、五陰の苦という結論に至ります。全ての作為は苦なのです。凡夫のほぼ全ての心念には我が含まれており、我が現れています。我があることが即ち苦であることを知らないのです。
問:呼吸を観じる時、どの識心が呼吸を操作していますか?幾つの識心が呼吸を観じていますか?
答:自主呼吸には意識と意根が呼吸を調節していますが、通常は意識は呼吸を調節しません。四禅定では呼吸現象がなくなります。これは禅定が甚深であることを示しており、意根が呼吸を調節しなくなるため呼吸が停止します。もし呼吸が意根に関与しないのであれば、呼吸状態は永遠に一定で変化することはないはずです。
呼吸を観じる時は意識が観じており、身識の覚知があるため五倶意識の覚知があります。精力が集中している時は意根が意識と共に同時に観じ、集中していない時は意根が軽く縁するだけで、専注していないため何の感覚も考えも生じません。呼吸を観じる時、意念が呼吸に従って丹田に至ると丹田は温かくなり、熱が発散され、自然に発汗するかもしれません。気を丹田まで運行させ発汗現象が現れるなら、それは意根の念が丹田に至ったことを示しています。気がそれに従って丹田に到達するのであり、意識単独ではこの力はありません。
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