衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2018年05月10日    木曜日     第5 回の開示 合計466回の開示

意根と六識の受動了別

問:意根が黙して一切の法を容れるという場合の「黙容」は、受動的な受け入れと理解してよいでしょうか。例えば六塵の境界における声塵の場合、耳障りな音を聞きたくなくても、声塵という因縁から離れない限り、あるいは意根の意識を他の内容に向けない限り、避ける方法がありません。

答:意根が黙して一切の法を容れるとは、意根が如来蔵に随って一切の法を見、一切の法を了知することを指します。一切の法には第八識の働きだけでなく、意根の働きも存在し、この二つの識の働きは極めて深微です。深微と言われる所以は、意識の禅定と智慧では二つの識の微細な働きを観察し得ないため、意根と如来蔵の法が深遠で、識心の働きがさらに微細であると説かれるのです。

境界の法を受動的に受け入れるのは六識です。意根の慣性的な了別力に意識が降伏できないため、望まざる境界をも了別せざるを得ません。意根が受動的に境界を受け入れる状況とは、如来蔵が成熟した業種に基づいて現行する六塵境界及び非六塵境界を、意根が受動的に受け入れざるを得ず、その多くは逆縁や逆境に属し、善業の果報も含まれます。

意識が禅定に入り六塵境界を受け取りたくない場合でも、意根が降伏していなければ、六識は意根が興味を持つ境界、あるいは意根が慣性的に縁取る境界を絶えず了別させられます。すると意識は不断に意根を引き込み、意識が観行思惟したい法に定めようとします。意根が意識に説得され降伏する時、意根は縁取と了別を減らし、注視すべき六塵あるいは法塵に定まり、六識は初めて禅定に入れます。実際には意根が先に定を得てこそ、六識が定まる方法を得るのです。

——生如法師の開示
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