衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2019年01月02日    水曜日     第1 回の開示 合計1149回の開示

意根自らが証得するこそが真の智慧である

無夢無想時の主人公はどこにあるのか、これは禅宗の第三関の内容です。第一関、第二関を破ったかどうかに関わらず、この内容は詳細に説明できません。説明すると、意識心の層面に落ちてしまい、ただ理解するだけでは、意根が証得することが難しくなります。それでは仏を学び禅を参究する意義がなくなります。第三関を過ぎた後、修定により初禅を修出し、陽炎観を証得した後、禅宗の第三関に到達できます。第三関を参究開始する時、他人の解説を求める更不能。第三関を過ぎれば三果人となります。凡参究が必要なものは、意根自身で参究し、自身で証得する必要があります。他人の話を聞いても証得できません。仏道も修行続けられません。

自身で第三関の内容を参究し、唯識の理论知识を少し理解すれば、初地に入ることができます。しかし初禅この関は、恐らく全ての人を难倒します。以前、私は希望を抱いて、人が初禅を修出し、煩悩を断除し、無明遮障を破れば、初地に入り真仏子となる資格があると思いました。現在では希望がありません。当今世間の人修定はこのように難しいです。五欲六塵が人を大吸引します。実は人が五欲六塵に大着します。境界は無心で人に粘らず、人は有心で境に趣します。誰も肯心を息して五欲を遠離しません。方法ありません。

第一関で死屍を拖したのは誰ですか。この結論を公開すれば、あなた方が誰が死屍を拖したのかを知っても用ありません。究竟如何に死屍を拖したのかは仍然知らず、証悟できません。自身で参究しない、意根不相应の場合、全ての答えを知り、最詳細の答えを知り、仏の境界を知っても用ありません。如果用あれば、私たち皆仏経を読んで、仏地境界を研究出し、共同快速成仏すれば、是否素晴らしいですか?実は、私たちの知は証ではありません。知易证难です。一切法が梦幻泡影であることを知れば、一切法が梦幻泡影であることを証得しましたか?仏地境界を知れば仏となりましたか?都不是です。凡夫が四果阿罗汉の修行境界を懂得と讲出すれば、四果阿罗汉の修行をしましたか?凡夫が如何成就仏道を讲出すれば、仏となりましたか?都不是です。

まとめ起来言えば、多くの法意识が轻易に知、懂得、理解しても用ありません。意根自身で証得する必要があります。証得すれば智慧解脱と成仏できます。証得しない場合、言い尽くしても一点用ありません。解脱を得ません。

——生如法師の開示
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