懺悔には真の懺悔と偽りの懺悔があり、身口意の行為にはすべて真偽二種が存在します。偽りのものは真心から行うものではなく、心の底から発するものではなく、意識心の表面的な作為に過ぎません。真実の誠意あるものはすべて心の底から発するもので、意根が作為を望むものです。
真の懺悔とは意根が心の底から発する誠実な悔い改めであり、仮初めのものではありません。意根が懺悔を望む時、意識を通じ五識を経由し、五陰身によって意根の悔恨の意を表現せしめます。意根が五陰身を離れ、意識と五識を離れたならば、手段を失い働くことができず、自らの願いを成就できません。ここから言えば、意根は意識を離れては何も為し得ないのです。しかし意根は決定的に独自の智慧認知を有しており、生来の聡明さとはまさに意根を指すもので、前世から無量劫を経て今生に持ち越されたものです。
この智慧は意識の教導を必要とせず、先天的に具わっています。意根の持つ多くの智慧を、意識は持ち合わせておらず、意識が理解できない多くの法を、意根は理解しています。意識はなお意根の薫染に依存し、意識が分析思考によって人事物理を判断できない時、意根の直観作用に依拠して判断と選択を行います。よって多くの事柄を成し終えても、意識は未だ事情を知らず、茫然としながら事を遂行し、時として良好な結果を生むことさえあるのです。
身口意行を完遂した後も、意識は未だ真相を知らず、全く理解できず、分析思考判断が不可能であったため、すべて意根自体が主導して決定したものです。事後も意識は依然として事情を知りません。ここにどうして意識の微塵ほどの知恵が関与していると言えましょうか。
五陰身・意識・五識はすべて意根が用いる道具であり、これらの道具を離れれば、意根の六塵における考えは一つも実現できません。意根は必ず六識を利用して身口意行を作り出し、自らの考えと心を表現せねばならず、さもなければ聾唖者や障害者の如く、何も為し得ません。これは意根自体が独自の知見と智慧認知を有し、意識を必要とせず先天的に具わっており、意識が存在する時は丁度意識に依拠して表現され、意識がなければ表現できないことを示しています。故に意根の智慧や功徳をすべて意識のものと決めつけ、意根が無量劫にわたり培ってきた生得の能力を埋没させるのは不公正であり、世俗人の無智の現れです。
重大な事態、特に危急存亡に関わる事柄において、意識に思考分析判断の機会や能力が残されているでしょうか。しかし意根が主導権を握り決定を下し、緊急措置を講じて災難を次々に回避し、最終的に凶を吉に転じます。事後、意識は依然として真相を理解していないのです。
我々衆生は真に意根の凶を吉に転ずる能力に感謝すべきです。意根のこの生得的な智慧選択がなければ、私たちの生命は誕生後間もなく夭折し、老死まで生き永らえることなど到底叶わないでしょう。
世人に対する判断、特に初対面の未知なる者への判断において、意識は往々にして力を発揮できず、すべて意根が累劫にわたる経験に依拠します。これが直観であり、智慧なのです。
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