意根は直接に業と相応し、業種と相応する。前世の業種は、意根に現れることができる。意根の習気が業力であり、善業もあれば悪業もある。意根が善業と相応する時は善の習性として現れ、悪業と相応すれば悪の習性として現れる。意根が善業と相応すれば智慧が生じ、悪業と相応すれば非常に愚痴となる。
衆生には善業もあれば悪業もあり、衆生の意根は善業にも悪業にも相応する。時には智慧があり、時には愚痴となり、ある面では智慧があり、ある面では愚痴となる。例えば畜生は普遍的に愚痴であり、これは悪業である。しかし畜生にも聡明で智慧ある一面があり、これは否定できない。前世において人間や天人、菩薩であったかもしれず、六道を遍く巡り、全てに業種を残している。畜生には畜生固有の智慧があり、生来のもので後天的な学習を必要としない。畜生は愚痴であるため、より多くの思考分析推理判断を持つことができず、常に直感に頼って生存し、あらゆる環境に対応する。この直感とは意根の覚性であり、愚痴の面と智慧の面を併せ持つ。畜生の意根の智慧とは、宇宙器世間の変化に敏感で、先見の明を持つ能力である。人間が知り得ない災害や重大な事柄を、畜生は皆感知し、感覚が極めて鋭敏であるため、しばしばこの先見の明によって生存環境に適応する。人間にはこれができず、必ず意識の思考分析推理判断に頼り、科学的手段を依拠して初めて宇宙器世間に起こる変化を知ることができる。
2
+1