耀霊の止観日誌:
1、先日は休暇で外出し、親戚を訪問した際、毎日努めて白骨観を提起した。白骨の影像を心に留め、人と接する際は淡々とした心持ちで礼儀に適うようにし、寡黙に振る舞い、感情の動きを抑えた。これにより煩悩が大いに減り、後々まで執着することがなかった。
2、昼間に煩悩に染まらなければ、夜の座禅で目を閉じた際、心が乱れておらず身心の緊張もないことに気付く。呼吸観察や念仏も容易に状態に入れる。昼間に執念が生じれば、水が氷となる如く、夜の座禅で氷を溶かすのに大いなる労力を要する。
3、「不浄観」を因とすれば、「我相なく、人相なく、衆生相なし」は果ではなかろうか。『金剛経』はまさに「不浄観」を説いている。人我の相なき時、貪瞋痴は根本を失い、誰に向かって貪瞋痴慢を起こすべきか。心は自然と平淡安寧を保つ。
4、『楞伽経』に説くこの不浄観・白骨観は「凡夫の行ずる禅」である。我こそまさに凡夫なれば、この正念を常に提起すべきである。
評:この修行は戒定慧を完璧に融合したもので、効果極めて顕著。戒の現れは念を起こさず煩悩を生じず、人と接するに礼儀に適い、心淡泊にして平穏なり。定の現れは心淡々として乱れず、呼吸観察や念仏が速やかに三昧に入る。慧の現れは第一に観行状態に速やかに入り、第二に『金剛経』『楞伽経』の理法を対照し、自らを調伏して禅定の功夫を速やかに向上せしむ。慧をもって定を導き、定より慧を生じ、定慧円融す。かくの如き修行は正道に入り、戒定慧が更に増進すれば我見を断つ端緒を得ん。
多く修行者は戒を持せず、境界に接して心数々に起こる。生じる煩悩の多くは他者によるものではなく、自ら根拠なく煩悩を起こし、空の境界に法を実有と見て執念を生じ、人我是非絶え間なきも自覚せず、他人が諭しても服さず、却って嫌悪と怨言を抱く。これは修行とは程遠く、我執甚だ重し。かかる戒持たぬ結果、如何なる禅定も成就せず、世俗法と仏法の双方に智慧なく、故に煩悩は智慧の大敵なり。
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