もし定力が十分であり、知見も十分であるならば、座禅の静中の定と協調させ、定力を強化すべきです。その後、仏法を観行し、五蘊を観行します。その後に参禅し、心に常に参究の疑情を抱きます。まず我見を断ち、その後参禅して心を明らかにします。
仏法を学ぶ目的は、観行を行い、その後証得するためです。観行ができないのは、思惟力が十分でないことを示しており、つまり定力が不足しているのです。思惟修のない禅定は、証法に対してほとんど役立ちません。したがって、禅定を修め、禅定が本来あるべき役割を果たせるようにすべきです。
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