食物が胃で消化された後、胃が空になると、意根がこの状態を了別し、細かい分別を考え、如来蔵は身識と意識を生じて空腹の触塵を了別します。身根が空腹の触塵に接触すると同時に、意根が触塵上の法塵に接触し、如来蔵が身識と意識を生じることで、二つの識が空腹の触塵を感じます。分別した後、意識が名言概念を形成し、この状態を「空腹」と定義して食事すべきと判断し、状況を意根に伝達します。意根が作意・受・想に触れ、思量して食事すべきと感じ、食事を決断します。如来蔵が意根に呼応し、六識を生じ、八つの識が和合して作用し、食事の手配を行います。
満腹と空腹は共に触塵であり、六塵の一つです。これらはどのように生じるのでしょうか。食事をして飲食物を胃に取り込む時、胃が飲食に接触することで飲食の存在を感知します。満杯か否かは実際には身識の感覚であり、満たされれば飽食の触塵となります。その後、飲食が徐々に消化され、完全に消化されると胃が空になり、身識が空腹を感じ、飲食で胃を満たす必要が生じます。
もちろん単独の身識だけでは触塵を感じられず、意識が同時に協働して感知する必要があります。触塵には同時に法塵が現れ、意根がこれに対向します。根と塵が接触すると、如来蔵が身識と意識を生じて空腹の現象を感受させます。六塵は如来蔵が顕現させたものであり、触塵も如来蔵が現出させたものです。飢えや渇き、寒熱といった触塵も同様に、如来蔵が身体と環境の具体的状況に応じて顕現させ、その後身根がこれらの触塵に接触し、意根が触塵上の法塵に触れることで、如来蔵が身識と意識を生じ、我々は飢えや渇き、寒熱といった触塵を感じるのです。
要するに、如来蔵が六根を生じ、六塵を現出させます。六根が六塵に接触する時に六識が生じ、根・塵・識の三者和合の触によって初めて衆生の五蘊における様々な分別活動が成立します。故に一切の法は如来蔵の妙用であると言えるのです。
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