世俗法には「万物の生長は太陽なくしては成り立たない」という言葉があります。もし万物が太陽に依拠して初めて存在できるのであれば、太陽はまた何に依拠して存在するのでしょうか。一つの事物をまた一つの事物と順々に推し進めていくと、最後にはどうしても推し進められないところに行き当たります。そのときにこそ、最も究竟のもの、他の縁や他の法に依らずに自ら存在しうるものを推し出すことができます。このものは生まれることがなく、また永遠に滅することもないので、こそ最も信頼でき、最も依拠しうるものなのです。
縁覚(辟支仏)たちは因縁法を推し求め、最後には阿頼耶識 (Ālayavijñāna) にまで推し進めますが、それ以上は推し進められません。そこで彼らは一つの結論を導き出します。すなわち「識縁名色、名色縁識」です。こうして万法の源が推し出されたのです。それが阿頼耶識 (Ālayavijñāna) です。五陰 (pañca-skandha) の名色は阿頼耶識 (Ālayavijñāna) によって直接に生み出され、その他の法はみなこの法が生じるための助縁であり、万物の生もまた同様です。私たちが仏法を学び修行するにあたっても、推論を身につけるべきです。そうすれば、多くの法は他人に教えられなくとも、自ら証得することができ、明心して如来蔵 (tathāgatagarbha) を証することはそれほど難しいことではありません。
楞伽経ではなく『楞厳経』には、太陽の光は太陽から来るのではなく、直接に如来蔵 (tathāgatagarbha) の中から来る、と説かれています。同じ理屈で、万物の生長は太陽によるのではなく、如来蔵 (tathāgatagarbha) によるのです。如来蔵 (tathāgatagarbha) が四大の種子を送り出すことによって、万物は生長するのです。もし如来蔵 (tathāgatagarbha) が四大の種子を送り出さなければ、陽光がどれほど照りつけようとも、万物は生長できず、むしろ死んでしまいます。しかも、陽光そのものもまた、如来蔵 (tathāgatagarbha) が四大の種子を送り出すことによって形成されたものであり、一刹那たりとも如来蔵 (tathāgatagarbha) を離れたことはないのです。
『楞厳経』をしっかり学べば、思考は開かれて明瞭になり、一切の法の生成と存在・運行はすべて如来蔵性 (tathāgatagarbha) であり、他の何ものでもないことが分かります。この物があの物を生み出すなどということはありえません。なぜなら、この物は自性を持たず、生滅するものであり、永遠に存続するものではないからです。それがどうして他の物を生み出せましょうか。すべての物は如来蔵 (tathāgatagarbha) の中から直接に生み出されるのであり、その他の物はただ助縁にすぎません。物が物を生み出すことはできず、物は物を生まず、万法は唯心が造るのです。一切の法を最後まで推し進め、それ以上推せなくなったとき、もはや還すべきところ(帰着すべき対象)はなくなります。その還すことのできないものこそ、如来蔵 (tathāgatagarbha) なのです。
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