衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

生如法师のウェブサイトロゴ

日常開示

2021年05月01日    土曜日     第2 回の開示 合計3363回の開示

父子合集経講話(二二七)

福德もまた共業によって感得されるものである

転輪聖王が黄金の雨を降らせたいと願う時、その貪欲は次第に大きくなり、小さな欲求に満足しなくなります。もしその貪りの念が現実となったならば、それは何を意味するのでしょうか。彼の福德が具わっているからこそ、そのような貪念を実現できるのです。もしある人が「天から黄金を降らせよ」と念じ、実際に黄金が降ったならば、それはいかなる状況下において可能かと言えば、天下の人々すべてがそれ相応の福德を具えている場合に限られます。念じる者だけでなく、関係するすべての人々がその福徳を受ける資格がなければなりません。共に受用する者に福徳がなければ、黄金の雨は降り注がず、仮に降ったとしても福徳なき者は得ることができません。福徳の業種がなければ、福徳の花果は現れないのです。衆生の福徳が具足していることが前提条件となります。転輪聖王が治世する時代には、民衆すべてに福報が備わり、その福命によってこそ天から黄金の雨が降り注ぐのです。

これは転輪聖王と四天下の人々の共業による感得です。共業とは、同じ福徳を共に積んだことにより、共に同じ果報を受けることを指します。例えば夫婦には共業があり、共業がなければ結ばれません。夫婦は同じ善業あるいは悪業を持ち、共に富貴や貧困を感得します。一方が富貴で他方が貧困という場合は存在せず、そうであれば結ばれないのです。もし夫婦の共業が尽き、一方が富貴の果報を受けるべきで他方が貧困の果報を受けるべきとなれば、二人は共に生活できなくなります。

親子にも共業が存在します。親子に共業がなければ、例えば親が貧困の果報を受けるべきで子が富貴の果報を受けるべき場合、子が成長して家を出た後、別の地で富貴を得ても親はそれを享受できません。これは共業が無いことを示しています。衆生が共に地球に住むのも共業によるもので、ある小都市に住む人々にも共業があります。故に我々が富貴の果報を得ようとするなら、求めずとも布施を修め福徳を積めばよいのです。修める者が得、修めざる者は得ず。善業に際限はなく、この富貴の業を私が修めたからあなたに無くなるというものではありません。修める者すべてが得るのです。

よって共業は衆生を一処に集わせ、不共業は衆生を離散させます。極楽国土の衆生は共業により天衣天食が自然に現れ、七宝が地を覆い黄金が道を鋪くのです。これが極楽国土の衆生の共業です。一方、地球人は黄金を宝物として身に飾ります。地球人の福報が尽きかければ、最上の物は鉄となり、人々は錆びた鉄片さえ宝物として身に付けます。衆生に福徳が無くなれば、無福の共業が悪しき物を感得し、宝物は現れないのです。

——生如法師の開示
前の記事前の記事

如来蔵の五大種の機能作用

次の記事 次の記事

父子合集経講話(二二八)

ページのトップへ戻る