濤氏の観行日記:私が小学生の頃、走った後は毎回左腰が攣り、医師から腸痙攣と診断された。後に坐禅を長く組むようになって、尾骶骨の経絡が腸を引っ張り、下半身全体に違和感を生じさせていたことに気づいた。今年の年初、師匠が主催する断食修行に参加し、十日間断食したところ、この症状は大分改善された。この間坐禅を通じ、体内の気脈が絶えず運行・衝撃・調整され、痛みや張りのある部位も次々と変化していき、今では左腰の経絡がついに通じ、どのように体を揺らしても、前屈みになっても、引っ張られるような痛みはなくなった。
常に坐禅を組むことで身体のエネルギーが充実し、覚照観察力が養われるため、坐り始めてすぐに状態に入り、粗い妄念は薄れ、心は柔軟になり、とても軽やかな感覚を得られる。電気自動車を運転するように、満充電時の走行状態と電力不足時の状態は全く異なり、前者は非常に軽快で、後者は力なく引きずられるように進む。これはエネルギー量の違いによるもので、清浄心もエネルギーなら、覚照力もまたエネルギーである。坐禅で定慧を修めることは、まさに充電のようなものだ。
意識心の「知」を内心の最深部に置き、この「知」で持続的に照らし続けることで、内なる染汚と濁りが絶えず浄化されていく。これが私が現在実践している修行法である。この「知」はまた意根と意識の攀縁を制御するために用いる。小動物を捕まえる時、尻尾や腹を掴むと逃げられてしまうが、首筋をしっかり掴めば大人しくなるように、妄念を制する手法も人それぞれ異なり、自ら模索して最も適した方法を見出す必要がある。
評:禅定は心を外界から引き戻し、外境に注意を向けず、心を収斂させることで、専心して自心を観察できるようにする。これにより自心を反省し、煩悩や習気を発見し、種々の不足や欠点を検出できる。自覚的・無自覚的にこれらの欠点を改め、不足を補い、謙虚で慎重な性格を養い、徳行を高めるのである。燈で他者を照らす者は多いが、自らを照らすことを知らない。自照は自修であり福徳を増し、他者を照らせば人我の是非煩悩となり福徳を減ずる。燈台下暗しとは、まさに己が心を指す。
禅定が深まれば精力が充実し、身心が軽安となり、心は柔軟さを取り戻す。心量が広がり他者や境遇を包容し、もはや人を敵視せず和やかに交流できる。情が高まり人間関係も改善される。常に「知」を保持することで集中力が向上し、心は益々繊細に、静寂に、思考は深遠になり、智慧は増大する。煩悩は自然に沈澱し次第に消滅し、業障も徐々に除かれ修行の障縁が減る。これは脱胎換骨の過程であり、自己を全面的に修正する道程である。この過程なくして凡夫が初果向けや初果人に至ることは不可能で、空しく聖人となることを望むべからず。
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