今回の観行記録:この二日間、座禅をする際、まず結跏趺坐で25分間座り、体が熱くなってから半跏趺坐に切り替えています。右足が以前より柔らかくなりました。結跏趺坐時の精神集中効果が半跏趺坐より優れていると感じます。現在は主に止(サマタ)を修しており、座った後に心が落ち着き、「刃を研ぐことは薪割りを遅らせない」という重要性を認識し、特別な感覚や結果を求めないため焦りもなくなりました。呼吸から着実に実践する心構えができています。
座禅開始時はまず呼吸を整え、腹部まで深く吸い込み、ゆっくり吐くことを数分間繰り返しながら全身をリラックスさせます。その後、般若心経を一字ずつ黙想し、止観の状態に入ったらしばらく呼吸を観察します。退屈を感じ心が散漫になりそうになると、この心がただの認識機能に過ぎず、「私」という実体が存在せず、内外共に得られるものがない夢幻のような状態を観じます。そうすると欲求が消え心が静止し、観る意欲も自然になくなります。45分経って足が痺れ痛みだすと、感覚を耐え忍び1時間で降座します。
講評:観行中の身体状態と心理状態の浮動は自然な現象です。継続的に実践すれば最終的に安定します。その時こそ観行が確固たるものとなり、観察対象である呼吸に対する明晰な認識が生まれ、呼吸に伴う身体現象に対しても冷静な理解が得られます。境に囚われず心と物質を分離し、身体を俯瞰することで初めて真理に沿った認識が可能となり、身体の無常・空性を次第に感知します。この感知は意識による強制や誘導ではなく、意根による客観的で理性的な認識です。唯有る理性的認識こそ持続的に作用し、身心を変容させ五蘊への執着を転換させます。このような不断の精進によって我見を断つことも可能です。
こうして徐々に修行を深めれば、意識と意根の役割分担が明らかになります。意識による悟りの証得という非理性的な見解がいかに幼稚であるかが分かるでしょう。経典に記載された比丘が説法を聞いて短時間で悟りを得た事例を、三十七道品の修行も禅定もせずに簡単に証果できると誤解するのは甚だしい無知です。彼らは前世今生で膨大な修行を積み、三十七道品を具備し、善根福徳を培い、法縁が成熟し仏力の加護を受けたからこそ成し得たのであり、何の代償もなく得られたものではありません。
現在私たちが精進する四念処観はそのまま三十七道品の実践であり、戒定慧を並行して修め、善根福徳を育み、近道せず着実に基盤を固めることです。各種の因縁条件が整えば、自然に我見を断つことが可能となります。
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