広く学び多く聞くことは、他人の宝を数えることに喩えられます。自らには一文の分け前もなく、他人の宝を見た後、自らの宝を得る方法を考えねばなりません。自らの宝を数えるとはいかなる心境でしょうか。淵に臨んで魚を羨むより、退いて網を結ぶに如かず。深淵に幾万の魚を見ようとも、自らのものではございません。賢き者は振り返り網を結び、網で捕らえて初めて享受できるのです。しかしこの世の中には、賢明なる者が少ないようで、ただ他人の宝を賞賛し、自らの宝を持たんとはせず、飢えても顧みません。ある者は日々法を聞くことに熱心ですが、決して修行して法を得ようとはせず、他人のものを見終われば、自らを顧みるべきです。自らが持つことこそ真実ではございませんか。自らが持つを有と申し、他人の有をどうして己がものと申せましょう。
古人は学びて思わざれば則ち罔しと申しましたが、我らは学びて修めざれば則ち罔しと申すべきです。多くの者も思惟しますが、その思惟は浅薄で禅定なく、法の表面をなぞるのみで深く入らず、皮毛を知るだけで自ら証した証したと申します。その浅薄と慢心は憐れむべきです。そのような思惟は修とは申せません。修とは修理、自らの身心を修めることで、身心を修めた後、相応の変化が現れて初めて修と申せます。もし人が元の人のままで、心が元の心のまま、煩悩も元の通りならば、修とは到底申せず、ましてや修後の果などありえません。自ら認めた果は、容易に消え朽ちるものでございます。
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