如本の観行記録:ここ二日間、座禅で鼻の呼吸を観じ、主に止の修行と脚の訓練に専念した。特別な境界は現れず、右足は以前より柔らかくなり、各座で結跏趺坐を30分程続けた後、半跏趺坐に切り替えるか、あるいは片足50分ずつ交替する。痛みもさほどではなく、一時間の座禅も長く感じられなくなった。
座を下りた後、昼間外出する際、常に第三者としての意識を保つよう心掛けた。この身体が実際にどう活動するのか、言語や思考、推論を伴わない心で観察し、自分や他人が口を開いて話す様、咀嚼して食事する様、歯を見せて微笑む様、眼球が動く様、手を挙げ足を運んで傍を通り過ぎる様を、ただ見て聴いて知ろうとした。
決して心の中で「これは意根の機能」「これは意識の機能」「これは耳識の機能」「これは身識の機能」などと分析してはならない。第三者としての心構えで、参与も分析もせず、ただ身体から離れた心眼が生起するのを待つべきだ。そうすれば身心の変動過程を傍観できる。この中で意識の動きは極めて微細であり、自ら体験しなければ理解できない。
時折、ふと振り返ってこの分別する心がどのようなものか、身心がどのように相応して運営されているのかを反観することがある。ただこの疑念を抱き続け、決して思考推論に走らないようにする。思考推論を加えると、体験を参究する欲望と力が失われるのを感じる。
次第に自分の定力がまだ不足していると感じるようになった。人と話し過ぎると覚照の力を失いやすく、習気を制御できず、常に呼吸に戻って安住する必要がある。ますます禅定の重要性を感じ、体験と知識の違いを実感するようになった。
評論:観行時は可能な限り純粋な知を保ち、主観的な意識の思考分析を意図的に加えず、意識的な主観思想を持たず、いかなる観念も持ち込まず、心を静めて放下すること。全ての事柄は意根が黙々と注視し管理している。主人を信じるべきだ。時に知識が多いことも負担となり、意根自身の思量観察を阻害し、真相と事実を見極められず、実証もできなくなる。社会の様々な成功者は必ずしも知識が多い人ではなく、深く細やかな思惟を持ち独自の見解を持つ者、つまり意根に智慧ある人々だ。実際の操作経験が豊富で、脳内の空想や口先の空論に頼らない者である。空論は往々にして国を誤らせる。
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