衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常開示

2021年04月23日    金曜日     第1 回の開示 合計3334回の開示

意識と意根の境界が一致して初めて証悟に至る

望遠鏡は一瞬にして数キロ、数十キロ先の高山や大海を見ることができます。しかし実際に高山や大海を目の当たりにし、触れるためには、自ら数十キロの道を歩き、山麓や海辺に辿り着かなければなりません。そうして初めて高山や大海を直視し、触れ、その姿形を知り、人に向かって「私はあの高山と大海をこの目で見た。実に壮観で、心がたちまち開け、この上なく喜ばしい」と語ることができるのです。三昧の境地はこれに似ています。意根が自ら到達し、望遠鏡を離れて直視してこそ、定慧等持の三昧が得られます。意根が至らなければ、それは望遠鏡を通した見方に過ぎず、真実の無条件で赤裸々な見方ではありません。

意識はあたかも望遠鏡のようです。どれほど遠い境界を見ようとも、その見方は真実ではなく、境界は曖昧模糊としています。意根の見るものは明瞭透徹、法の根源に徹します。もし意根が意識の見るものに追従しなければ、それは直視ではなく、現境への親臨でも、親証でもありません。意識の見るものは境界から遠く離れ、真実ではなく、あたかもレンズ一枚隔てたように遮蔽され、景色は精緻さを欠き、輪郭のみの曖昧なものです。細部は意根が自ら見てこそ明らかになり、その所以を知るのです。

凡夫の地において意識が仏典を読み、仏の境界を知ったとしても、意根が知らなければ仏境を親証したことにはなりません。このような粗雑な知見は、知らぬことと大差なく、仏境を親証し、その真実を細かに深く知るためには、更に三大阿僧祇劫、すなわち三無量劫を修行しなければなりません。途中に近道はなく、修すべき法は全て修し、証すべき法は全て証し、戒定慧・三十七道品・菩薩六度などの行持を一切欠かすことなく、全過程を自ら経験しなければなりません。手抜きや近道は決して許されないのです。

凡夫の地において意識が八地菩薩の無功用行の境界を学び、法に任せて運び、思慮を用いずに如来蔵が根身器界を了別し運営する様を現量観察できることを知ったとしても、このような境界に対する意識の理解は極めて粗雑で、実際の証得までにはなお二大阿僧祇劫の修証の隔たりがあります。この期間中いかに語ろうとも、如来蔵が究竟的に如何に根身器界を了別運営するかを現量観察することはできず、この境界を親証するためには更に二大阿僧祇劫を修さねばなりません。中間の過程は全て歩み、手抜きやごまかしは許されないのです。

凡夫の地において意識が真如三昧という名相を学び、その殊勝さを感じたとしても、具体的に何が真如三昧か、その境界如何かについては内心何も知らず、知見しているのは単なる臆想に過ぎません。真如三昧の境界を親見するには、更に一無量劫、即ち一大阿僧祇劫を修さねばなりません。真如三昧は真如の境界であり、一切法の上に証得されるもので、一切法あるいは部分法が悉く真如性であり、如来蔵の性質であり、一真法界の一部分であることを見るのです。一切法が究竟的に如何に真如性であり、如何に真実の法界であるかは、道種智・唯識種智の境界であり、初地以上の如来家に入った仏子のみが現量観察できるものです。初地以上の菩薩摩訶薩は法身を分証し、即仏を分証し、一真法界を分証して、初めて一切法の部分的な真如性を知ります。凡夫たとえ真に如来蔵を証得したとしても、真如三昧の智慧境界とは依然として隔絶しており、ただ思い巡らすのみで決して見ることはできず、見る時には既に道種智を具え、入地の大菩薩となっているのです。

凡夫の地において意識が金剛経を学び、一切法が夢幻泡影であることを知ったとしても、意識が再び一切法を夢幻の如く感じるためには、ほぼ一阿僧祇劫に及ぶ修行時劫を経て十回向位に至り、初めて夢幻境界を親証しなければなりません。その過程で次第に如来蔵を実証し、種々の三昧を発起し、初禅定を修め、貪瞋痴煩悩の現行を断じて三果人となり、禅宗の三関を突破し、現量有余涅槃を証得し、命終に際し無余涅槃に入る能力を得ながらも敢えて入らず、一品の思惑煩悩を留めて生生世世の五蘊身を潤し、自らを度し人を度すことを続けなければなりません。これらの条件を満たさず、これらの境界を経なければ、意識の覚える夢幻泡影は単なる言葉上の理解に過ぎず、どうして腹を満たすことができましょうか。

意識という望遠鏡が見るものと、意根が直視するものとの隔たりは極めて大きいのです。望むことは容易く速やかですが、親証には意根が一歩一歩足跡を刻み、自らその境界の縁に至らねばならず、極めて困難で、多大な代償と努力を要します。二者の見る境界は極めて一致せず、故に望むことは望むこと、証得は長期にわたり不可能で、ただ口先だけの慰めに過ぎません。何かの法を証得することが容易だと思ってはなりません。それは錯覚であり、実際はそうではなく、無量劫の業障、山の如き業力が容易に排除超越できるものではありません。仏の加持力は不可思議ですが、自らの業力もまた同様に不可思議なのです。業障が消滅し、善根福徳などの因縁が悉く具わる時、意根が意識との距離を縮め、意識の見るものと合一して初めて頓悟するのであり、これ以外は全て誤解の誤りなのです。

——生如法師の開示
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