世の中の一切の法は八つの識が和合して共に成り立っており、一切の法は古くて強靭な生命力を持つ大樹に例えられる。深く土中に根を張る部分は如来蔵に相当し、その基盤は堅固で広大で破壊不能である。太く頑丈な幹は第七識である意根に相当し、高く天に向かって伸びている。茂った枝は第六識に相当し、多くの枝は密集した葉と繋がっており、葉は五識に相当する。如来蔵である根がなければ第七識の幹はなく、第七識の幹がなければ第六識の枝はなく、第六識の枝がなければ五識の葉は存在しない。しかし五識の葉がなくても第六識の枝は存在し得、第六識の枝がなくても第七識の幹は存在し得、第七識の幹がなくても如来蔵の根は存在し得る。
これらの文章に大樹の構造図を加えれば、衆生の五蘊身を完全に表現できる。無明の重い凡夫は往々にして一枚の葉に目をふさがれ、美しい色彩に心奪われ、赤や黄や緑の葉ばかりを見て、その他の本質を全て見失う。これらの衆生は俗世間に酔い痴れ、飲食や享楽に明け暮れ、五欲の快楽のみを知り、思想も理想も追求も持たない。
やや聡明な凡夫は色鮮やかな葉だけでなく、枝の優美さも認識する。彼らは様々な思想や哲学理論の探求に没頭するが、枝葉が季節ごとに生滅を繰り返し、常住しないことに気付かず、研究した理論も絶えず更新され続け、究竟の帰結と根源を見出せない。
眼光が深く現実的な衆生は、枝葉を辿って幹に至り、潜在意識を探り心の奥義を求めようとする。福徳に欠け心力不足の者は幹の輪郭しか捉えられない。一方、聡明な者は視界を遮る枝葉を払い、太い幹を見出す。枝葉である六識の養分が全て意根の幹から供給され、意根の幹なくして六識の枝葉は存在しないことを悟る。
智者はそこで満足せず、さらに幹を辿って生命の源泉である不滅の根——如来蔵に至る。これこそ養分の源であり、幹は単なる伝達路に過ぎないと理解する。生命の源泉を見出した智者は心の安住を得、幹に寄り添い根元に座して涼をとり、枝葉の風景を楽しむことに至る。
哀れな一部の人々は幹を切り倒し建築材とし百年を残し、枝は薪として数年を暖め、葉は落ちて掃われず秋に朽ち、ただ根だけが孤然と横たわるのである。
0
+1