楞厳経を読むと、二十五聖の修行の結果から、意根が完全に前六識を代替できることが分かります。これは聖者たちの修行の事実であり、彼らは必ずしも菩薩である必要はなく、羅漢でも達成できます。前提条件として、禅定を具足し、三昧力を具備していることが必要です。
世尊は繰り返し楞厳経で強調されています。六根は元々一つの根であり、無明妄想によって六つに分かれたのです。道を得た後は六が消え一も亡び、全て本覚の機能作用となります。仏典の中でも楞厳経が最も深く透徹した教えを説いており、世尊は至る所で私たちが明心見性し、一切法の本質を認識し、帰家の道を見出すよう導かれています。
仏典を暗誦するのは菩薩の論を暗誦するより遥かに優れています。何故なら仏典は論よりはるかに信頼性が高く、人を誤らせないからです。ただし翻訳者の証量と力量の限界や、伝承過程での誤伝は別です。菩薩の智慧は仏の智慧に遠く及ばず、その説くところには全て誤差があり、完全に正しいものはありません。八割正しいだけで、既に貴重と言えるのです。
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