衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常開示

2021年04月21日    水曜日     第1 回の開示 合計3328回の開示

排除法を用いて明心は可能でしょうか

排除法とは何か。例えば自ら心中に目標を定め、選択範囲内で目標と異なる対象を排除し、残ったものを自らの目標と定める。選択範囲が全面的か否かを問わず、自己確認さえすれば独善的に確定する。明心証果の方法は実に簡明である。

犬を訓練すれば、排除法を用いて主人の指定する物を見つけられる。他の畜生も訓練次第で習得可能である。これは大脳を使わず労力を要せず、善根福德も禅定も持戒も、三十七道品の精進も不要だからだ。無学の者でも暗示を受ければ明心証果できる。例えば主人が犬の前にABC三枚の札を広げ、Cを指し示させるとしよう。犬はまずAを指すが、主人が首を振り否定する。次にBを指すが再び否定される。残るはCのみ、思考せずとも自ずと答えが定まる。犬がCを指せば、主人は正解と告げる。犬は歓喜し、自らを優れた存在と思い、主人から骨の褒賞を得る。

第八識を探る排除法も同様である。八識ある中で六塵を識別する六識は明らかに第八識ではない。即座に六つを排除し、意根と第八識の二者が残る。凡夫は意根を観察できず、その実体を知り得ない。たとえ「常に主導するもの」と教えられても把握不能で、その了別性を観察するのは尚更困難である。そこで意根を排除し、第八識単独を探求する。第八識は六塵を了別せず、六塵を了別しない何かを探し求め、それが六塵以外を了別していると空想する。しかしその実体は観察不能である。悟後の別相智・道種智を有する者でなければ第八識の了別性を観察できず、凡夫には理論に基づく推測しか許されない。経論に「根身器界を了別する」とあれば、それを根拠に確信に至り、三縛結を断じたと早合点する。

このような知性が先天的でなければ、後天的に脳に水が入ったとしか言いようがない。発達した子供にも劣る者が、どうして菩薩道を修証しようとする菩薩足り得ようか。単純極まりない。過去の祖師に出会えば、直心を以て一語も発せず、大棍棒で頭を打ち砕かれたであろう。宗門を害するとは何事か。幼稚園児の知能に教育は不要である。宗門の興衰を慮らねば、こんな者に一瞥も与えまい。しかし宗門の明心は仏法修行の要諦であり、衆生の生死の関門、現世来世の無量衆生の帰依解脱の場である。この門が破壊されれば、衆生は再び鯉の滝登りを成し得ない。

知解宗徒ですら排除法より尊い。排除法は知解も知能も要らず、豆の選別同様、不良を除けば良品が残る。四念処・七覚分・八正道・四正勤・四如意足・五根五力など修める必要なく、戒律も禅定も不要である。豆選びに仏説の条件は余計、最上根器には遵守不要と主張する。

六祖のもと十三歳の神会小僧は聡明で善根厚く、求法の念篤く山越え千里を跋渉して六祖に参じた。六祖は彼を「知解宗徒」と印可した。当時禅風盛んで開祖・善知識多数存在したが、神会和尚九十六歳まで知解宗徒のままであった。著作多く、生涯北宗神秀和尚の漸修派と宗論を戦わせた。今時の人に神会和尚の求法精神と善根福德を持つ者があろうか。排除法で第八識を探り神会和尚を超えようとする妄想は、第八識に拒まれる。憶測で描くのは画餅に等しく、飽くを得ない。要するに末法は末法と認識し、妄想せず実事求是を善とし、妄想を悪とすべきである。

——生如法師の開示
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