意識はしばしば意根を熏染(じゅんじん)し、意根の固有的な認知と観念を変えることを期します。意識が一切の法を理解することは難しくありません。難しいのは意根の理解と認知であり、意根の観念を変えることは非常に困難です。一旦意根の観念が変われば、証果は容易に手に入ることとなり、明心見性や様々な観行 (vipaśyanā-caryā) の成就もまた容易に手に入ることとなります。意根が一旦証果すれば、その思想観念も瞬間的に変わるのです。
意識が理解してさらに意根を熏習することが前提であり、その後の作業、つまり最も主要な作業は、意根に自ら参究思量 (manasikāra/manana) させることであり、その後にこそ親証できるのです。この前提がなければ、すべては解にすぎません。
古語に云う:「三岁孩子说得,八十老翁做不得」。ある人は話すだけで仏の境地にまで達することができ、仏の証量を自分の証量であるかのようにしますが、自分が真に証得し実行できた時には、すでに成仏しているのです。つまり、問題を理解することは非常に容易ですが、真に証得することは難の中の難だということです。それゆえ、聖人は稀であり、甚だ稀なのです。ある人々のように、本を二、三冊読んで、理解しただけで一人の聖人が横空に出現するようなものではありません。
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