衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2018年05月30日    水曜日     第3 回の開示 合計566回の開示

意根と善法が相応じてこそ薫習は成就する

善心所法:信、慚、愧、無貪、無瞋、無痴、精進、軽安、不放逸、行捨、不害。

これに対立する不善心所法は:不信、不慚、不愧、貪、瞋、痴、不精進、不軽安、放逸、不行捨、害である。

意根は十一の善心所と相応せず、必ず不善心所と相応する。二者のいずれか一方に必ず該当し、そうでなければ論理に合わない。例えば馬が白いのであれば、白くないのではなく、二者必ず一方に属する。人が善であるなら不善ではなく、二者必ず一方に属し、そうでなければ論理矛盾となる。

では意根は結局善心所法と相応するのか、それとも相応しないのか。あるいは双方と相応するのか、つまり善でも不善でもあるのか。もし意根がこの十一の善心所法と相応しないなら、それは合理的か。もしそうなら、意根は不善心所法と相応することになり、つまり不信・不慚・不愧・貪・瞋・痴・不精進・不軽安・放逸・不行捨・害という貪瞋痴の煩悩を具えることになる。これは前後の論理と矛盾しないか。修行は成就し得るのか。

六転は染浄依と呼ぶ。六識の染と浄は意根によって存在し、意根が染まれば六識も染まり、意根が浄ければ六識も浄くなる。

この言葉の寓意は深遠ではないか。意根が本来ある煩悩を持たなければ、六識は意根に依って煩悩を持つことが出来るのか。意根が本来ある煩悩を具えていれば、六識は意根に依って単独で清浄となり得るのか。もし六識が単独で清浄となり得るなら、なぜ「六転は染浄依」と言う必要があるのか。

仏法を学ぶ者には、大乗法を修めようと小乗法を修めようと、心は次第に清浄になり、善法と相応し、ますます無為に近づくべきである。

もし修行を続けた後、六識が全て善法と相応するようになっても、意根がまだ善法と相応できないなら、意根を薫染することに成功しておらず、修行は未だ初步的な成功を収めていない。そうなれば意根は依然として主導権を持ち、六識に意根と相応する不善法を造作させ、身口意の行いが清浄に変化せず、我見を断ち明心証悟することもできない。もし意根が十一の善法と相応しないなら、仏法を学ぶことは失敗であり、如来蔵に善法の種子を蓄積できず、来世で善業の果報を受けることもできない。

意根が薫染されていない場合、夢中の全ての心行は意根の心行であり、意識は主導権を持たず、必ず意根に流転支配され、臨終時の状態と同様である。では夢中で人を殺し家を焼く行為、悪意の報復、人と激しく争うなど、染汚した瞋恚の業行は、全て意根と相応するのか。もし意根にこれらの染汚した貪瞋痴の心行がなければ、どうして夢を形成できようか。しかも夢中では意識が意根を説得できず、常に意根の波動に従って流されるもので、中有の状態と同様である。夢中に現れる煩悩は、目覚めている時の意根の煩悩を反映する。夢中の心行が十一善と相応するなら、覚醒時の意根も十一善と相応する。そうでなければ、十一善と相応する業行を造作することはできない。

——生如法師の開示
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