一念相応の慧とは、すなわち意根を指し、意識を指すものではありません。故に禅宗が説く頓悟とは、意根が突然に悟りを証得することを意味します。意識は思考分析推論を通じて徐々に理解するもので、両者には区別があります。意識による理解は極めて平淡無奇であるのに対し、意根の悟りは茅塞頓開の如く、突然に新大陸を発見したかの如く新奇で驚きに満ち、骨髓に徹するが故に身心の反応が現れるのです。もちろん意根の悟りや証得にも段階があり、実質的なものも非実質的なものもあります。意根が頓悟する或いはある道理を理解する時、深く感得するものの、必ずしも最終的な証得とは限りません。
身体が無常で生滅し虚妄なる我ならざる道理は誰もが知っていますが、身見を断じて果を証することは極めて困難です。これは意根が無始劫以来の習慣的認知により、身体を我と認識する観念が根深く、現量観行がなく、固有の観念を覆すことができず、身体の無我を認められず、受け入れられないためです。これには意根が意識の思考に基づき自らの思量を起こし、自ら証し、証拠が充分に揃って初めてこの理を確認せざるを得なくなる必要があります。
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