精進して仏教を学べば心中の煩悩を消し去ることができる
私たちの心中の煩悩は非常に深く、数も極めて多く、断ち切るのは難しい。しかし本当の意味で「難しい」と言えるかどうかは、私たちが勇猛精進に修行に励むかどうかにかかっている。日の出と共に雪が解けるように煩悩も消え去るのだから、難易は全て自心に懸かっているのである。禅宗の悟りの難易について、悟りを開いた人々がこう喩えている。龐蘊は「難しや難し、十担の麻油を木の上に広げるが如し」と述べた。続いて龐婆は「易しや易し、百草の頭に西来の意あり」と答え、霊照は「難からず、易からず、飢えれば飯を食い、倦めば眠る」と応じた。三人三様の悟りに対する感覚と見解がある。よって全ての法の難易は人にあり、その根機の利鈍によるのである。難易は相対法であり、仮の相に過ぎず、真実としての難易が存在するわけではない。
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