衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2021年04月14日    水曜日     第2 回の開示 合計3302回の開示

彼は今こそ私であり、私は今、彼ではない

洞山和尚が川を渡る時、川面に映った影を見て突然悟り、偈を詠んだ:「渠(かれ)は今まさに我なり、我は今渠にあらず」

問う:渠とは誰を指す?我とは誰を指す?両者はどのような関係か。

洞山和尚は川面の影を指さして言う:「今のあなたは私だが、私はあなたではない」。影とは、第八識が映し出した五蘊であり、第八識から生じた第八識の影である。五蘊は唯識の究極的意義において第八識と言えるが、第八識は決して五蘊ではない。これらの法は考え、考察すれば理解できるもので、大したことではない。解悟と言っても良いし、解悟でないと言っても良い。証悟となれば、内から外へ上から下まで徹底的に検証しなければならない。何を検証するか?その者の心の変化があるか、智慧が生じたかを検証する。五蘊が単なる影であると証得すれば、必ず大きな驚きを覚え、心に波瀾が起こり、従来の執着が全て誤りであったと知る。この時の心境はどうか?何度も証悟を経験せず、心の通じた者でなければ、どうしてこの人が証悟したか解悟したかが分かるだろうか。普通の人には絶対に判別できず、百パーセント判別できないと言ってよく、ただ人の言い分を繰り返すだけである。証悟は大いなる智慧であり、真実をもって証悟の有無を検証できることは更に大いなる智慧で、証悟の智慧よりもはるかに大きい。

証悟は第八識の単純で大まかな運行を眼前に観察できるが、これは解悟の及ぶところではない。解悟の心にはただぼんやりとした影があるだけで、明確に説明できず、第八識がどのように作用し五蘊が如何に生じるかを知らない。理論を並べ立てても、一点の正確さも細やかさもないのは、水面に浮かんで水に入れず、水中の状況を知らないようなものだ。ある者が「自分は開悟し第八識如来蔵を証得した大菩薩だ」と言っても、この大菩薩は何年経っても第八識如来蔵のやや詳細な作用を説くことはなく、全て大雑把で曖昧な枠組みの理論ばかりである。そのような理論は経典や菩薩の論書を読めば大体推測できるもので、何ら珍しいものではない。禅宗の公案に至っては、祖師方が堂上で人々を接する際の身振り手振りを見れば大体察しがつき、様式を真似る者は少なくない。一指禅師の小さな弟子も指一本を使うが、外見は師匠と同じでも禅ではない。現代人の偽造能力は比類なく、世俗から仏教に至るまで同様で、業の重さ・煩悩の重さ・自我の重さがそうさせる。

禅宗の祖師方の身振りを真似る者たちは、解悟と言えるか、あるいは解悟の端にも触れていないと言える。意識の作用を第八識の作用と見なすのは外道である。八識共同の作用を第八識単独の作用と見なすのは推測に過ぎず、素人には全く理解できず、往々にして煙に巻かれる。この手口は天下を欺くことが可能で、衆生の見識が余にも浅薄で、実に愚痴に満ちているから騙されるのだ。だから騙された時は自らを検証すべきである。なぜ騙されたのか?他の人はなぜ明鏡止水で騙されないのか?街中でうっかり人にぶつかった時、相手が目を剥いて「私は証果の聖人だ。よくも私にぶつかったな」と言えば、あなたは笑って「すみません」と言えば済む。驚くこともなく、何も言う必要はない。

——生如法師の開示
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