答:無明とは、内心の晦昧無知のことであり、五受陰の苦・空・無常・無我を知らず、五陰世間の生滅変異を知らず、諸法の本質と相貌を知らず、諸法がすべて如来蔵 (tathāgatagarbha) の幻化であることを知らず、因縁果報の理を知りません。要するに、無明とは真実の理法を知らず理解していないことであり、一切の妄法を我と我所と執取 (upādāna) することです。これらの無明を帯びた知こそが、無明の知なのです。
もし観行 (vipaśyanā-caryā) を通じて五受陰の苦・空・無常・無我を実証し、諸法の真実の理を実証して無明を断除し、もはや迷惑顛倒して一切の法を執取しなくなれば、このような五陰に対する知、諸法に対する知は、明の知であり、明知と呼ばれます。もちろん「明」にも階級の差があり、层次や程度があります。最初の明と最後の明があり、「明」は漸次に明らかになっていくものであり、ますます明らかになれば、ますます智慧が深まり、ますます解脱に近づきます。
明はまた、意識の明と意根の明とに分けられます。意識の明は比較的容易で、仏法を徹底的に理解すれば、意識は明らかになります。しかし意根の明は、実証の後にこそ現れるものであり、意根の明は理解や簡単な思惟 (manasikāra/manana) だけで現れるものではなく、定 (じょう; samādhi) の中で絶えず参究し、絶えず思量しなければ、頓悟してたちどころに明らかになることはありません。意識の明は漸明であり、漸修すれば漸く明らかになります。漸明は解の結果であり、真実の智慧ではありません。
意識が理を徹底して理解することも決して容易ではないので、意識が証果するのも同様に困難です。多くの人が考えるように、思惟して解釈すれば意識が証果するというものではなく、それは意識の証果からは程遠く、意根の証果からはなおさら遠いのです。証果がそんなに容易なはずがありません。無明はあれほど深重であり、遮障はあれほど大きく、煩悩はあれほど重く、智慧はあれほど浅薄なのですから、良い凡夫でいられれば十分なくらいです。もし自分を変えず、煩悩と無明の一部を消除せず、脱皮して生まれ変わらないならば、証果の話などしないほうがよいでしょう。証果からはあまりにも遠いのです。
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