衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2021年04月14日    水曜日     第1 回の開示 合計3301回の開示

四念処観行に関する質疑応答

問:明ある知と無明の知にはどのような違いがありますか? 

答:無明とは、心の晦渋なる無知であり、五受陰の苦・空・無常・無我を知らず、五陰世間の生滅変異を知らず、諸法の本質的相貌を知らず、諸法が全て如来蔵の幻化であることを知らず、因縁果報の理を知らない状態を指します。要するに無明とは真実の理法を知らず、全ての妄法を我及び我所として執取することをいいます。これらの無明を伴う知が、すなわち無明知です。 

もし観行によって五受陰の苦・空・無常・無我を実証し、諸法の真実理を体得して無明を断除し、一切の法に対する迷妄と執着を離れたならば、その五陰に対する知、諸法に対する知は明となり、これを明知と称します。ただし明にも階級の差別があり、段階と程度が存在します。最初の明と最終の明があり、明は漸次的に明らかになり、ますます智慧を増し、ますます解脱へと向かいます。 

明はまた意識の明と意根の明に分かれます。意識の明は比較的容易で、仏法を透徹に理解すれば意識は明らかになります。しかし意根の明は実証の後に初めて現れるもので、理解や単純な思惟だけでは得られず、禅定の中で不断に参究し、思量を重ねることで頓悟し、瞬時に明らかになります。意識の明は漸明的であり、漸修すれば漸明となりますが、これは解の結果であって真実の智慧ではありません。 

意識が理を透徹することさえ極めて容易ではなく、故に意識による証果も同様に困難です。多くの人が考えるように、思惟を重ね解釈するだけで意識が証果に至るというものではなく、それは証果から程遠く、ましてや意根の証果はさらに遠いものです。証果がそれほど容易なものではないのは、無明がこれほど深重であり、覆いがこれほど大きく、煩悩がこれほど重く、智慧がこれほど浅薄だからです。良き凡夫となるだけでも十分であり、もし自らを改めず一部の煩悩と無明を除去せず、脱胎換骨しないならば、証果を語るべきではなく、証果からは実に遠く隔たっているのです。

——生如法師の開示
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