衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2018年06月02日    土曜日     第1 回の開示 合計582回の開示

どのような仏道を学ぶ者が即座に証果を得られるのか

坐禅三昧経に説かれる思惟の方法は、観行を教えるものであり、思路は明瞭だがやや粗削りである。禅定に観行を加え、証果と様々な三昧を証得する、つまり定慧を並行して修める。仏陀在世の時代も、弟子たちは法を聞いた後、禅定と観行を実践し、その後証果を得ていた。この修行の道筋は極めて効率が良い。唐や宋の時代も同様で、禅師が堂上で説法をし、大衆は禅定と思惟参禅を修め、やがて心を明らかにし本性を見た。

外道たちは皆禅定の修行を積んでおり、世尊に会った時、世尊が説法されると直ちに思惟観行し、証果を得ることができた。故に、他人が最後の証果の段階で法を聞いて即座に智慧を得たという結果だけを見てはならない。その前段階で既に禅定は成就し、心は清浄となり、三十七道品も修められており、正しい知見だけが不足していた。世尊の説法が彼らの正知見を補完したため、即座に証果を得たのである。七枚目の餅だけを見るのではなく、既に六枚の餅を食べ終えていた事実を見るべきである。

かつての禅宗の祖師たちは皆禅定の達人であった。弟子たちは皆禅定を修め、菩薩の六波羅蜜を完成させており、既に六枚の餅を食べ終えていた。禅師が堂上で説法をすると、座下の弟子たちは直ちに悟った。七枚目の餅を食べて、満腹になったのである。

我々は成就者の結果だけを見るのではなく、何よりもその修行の過程を見る必要がある。前世まで含めてどの程度修行を積み、どのように修行し、どのような根基を有していたかを観察すべきである。優れた根基を持つ者は法を聞くやいなや頓悟し、漸修を必要としない。なぜなら過去世ですでに漸修を終え、その道程を歩み終えているからである。修行者の修行過程から最後の一段階だけを切り取るのは重大な断章取義であり、人を害するものだ。

仏道を初めた者は、多く仏陀の本生譚を読み、仏陀が初発心から修行を始めた道程を参考にすべきである。これらは我々に大きな啓発を与えてくれる。仏法を学ぶとは、まさに仏陀のすべてを学ぶべきなのである。

——生如法師の開示
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