四諦、四正勤、四神足、五根、五力、七覚支、八正道といった内容は、いずれも見道の前後の修行過程であり、大乗・小乗で大差なく、修行過程は相似している。これらの過程による修習を経ずに突然結果が現れ、聖人となるならば、その結果は極めて信頼性に欠ける。結果や結論は模倣可能であり、全ての知見は暗誦できる。本を数冊多く読めば暗誦でき、想像し得るものである。
しかしこれらの過程は誰も模倣できない。見道を証得し果位を得る者それぞれが必ず経なければならない過程であり、各人の過程は前世の根基によって多少の差異が生じる。前世ですでに果位を証得した者は、今世ではこれらの過程を速やかに通過するかもしれないが、他の者はそうではない。皆が一つひとつ実践し実証し、各関門を乗り越えねばならない。大乗の果位も同様である。これらの過程をすべて経験すれば、その身心は転換し、果位を証得する際には極めて大きな解脱の功徳を享受できる。
これらの過程を経験していない者が得る結果は、空中の花のごとく、鑑賞するのみで実用価値がなく、解脱の功徳を享受することはできない。造花の果実がそうであるように、飾って眺めるだけで空腹を満たすことはできない。
いわゆる実修とは、大乗・小乗の三十七道品の修行内容そのものである。これらの具体的な修行内容を離れては実修とは言えず、結論のみで過程のない修行は実修ではない。理論だけを学ぶことも実修ではない。理論上は何地の菩薩の境地まで学べるが、たとえその理を理解しても、実際に証得するまでには無量劫か二無量劫もの隔たりがある。一二の無量劫先の理論を今学んだだけで、それを掌握したと思い込み、聖人となったと錯覚し、それまでの道を歩む必要もなく、実際の修行過程を経験し実践する必要もないならば、そのような修行は夢幻泡影に過ぎず、空しい花を得るのみで、虚ろな果実を結ぶだけである。
(注:仏教用語の翻訳について) - 四聖諦→四諦 - 四正勤→四正勤(四正断) - 四神足→四神足 - 五根→五根 - 五力→五力 - 七覚分→七覚支 - 八正道→八正道 - 見道→見道(けんどう) - 証果→証果(しょうか) - 無量劫→無量劫 - 三十七道品→三十七道品(さんじゅうしちどうほん) - 功徳→功徳(くどく) - 菩薩→菩薩(ぼさつ) 等の標準的な仏教用語を採用しています。
3
+1