思心所の作用は主に選択、意思決定を行い、実際の行動を開始することです。八識にはすべて思心所があり、選択性を備え、決定を下すことができますが、選択する内容と権限の大きさが異なります。八識は何に基づいて選択を行うのでしょうか。八識が選択を行う前には、それぞれ異なる心識活動があり、何ら心識活動がなければ選択を行うことはできません。五遍行心所法は八識がすべて持つ識心活動であり、相分に対する作意・触・受・想・思というこれらの識心活動が最終的に運行されると、了別した法に対して決定心が生じ、何らかの造作と行動を起こそうと準備します。
例えば、如来蔵の思心所による造作では、如来蔵が一部の耳根を創造する際、次の刹那に残りの部分をどのように創造するかを常に決定しなければなりません。どのように創造するか、どの位置に創造するか、どのような形状・色彩にするか、如来蔵は絶えず決定を下しています。これらの決定は、如来蔵が業種と耳根の状態を了別する際になされ、その了別過程には業種に対する作意・触・受・想・思の識心活動と、耳根の既に変造された部位に対する作意・触・受・想・思の活動があり、その後対応する部位で業種に対応した地水火風の四大種子を出力し、耳が徐々に形成・完成されていくのです。
また例えば、太った人が減量しようとする場合、如来蔵は意根に随順し、業種と現行の業縁に基づいて四大種子を出力することを決定し、色身の四大微粒子を吸収し、絶えず四大種子の比率構造と配列を変化させると同時に、七識と連携して身体運動や飲食構造の調整を行い、最終的に身体は変化します。もちろん如来蔵には五陰や色法の概念がなく、色法の相貌を具体的に了別することもありません。ただ業種を了別し、意根の思心所を了別するのみで、さらに色身が摂取した四大と業縁に基づいて、おそらく色身を次第に痩せさせることができるのです。もし業種が許さず、業縁が具足しなければ、痩せることは非常に困難です。
一切の法の運行には、如来蔵が思心所による決定を必要とします。そして決定を行う前には、必ず心識活動、すなわち作意・触・受・想・思があるのですが、一般的な人々はこれを認識できません。第七識は身体を痩せさせるという決定を知るだけで、第六識は身体を特定の様相に変えることだけを知り、具体的な変化の方法については意根は知りません。いずれにせよ色身の変化は意根が行うものではなく、意根はすべて自分が行ったことだと思い込んでいても、実際にはそうではないのです。第六識の観察智慧が不足している時は、身体が具体的にどのように痩せたのかも分かりません。如来蔵が色身の減量を助けた後、六七識は自分が痩せられたと感じ、何か代償を払ったかのように思いますが、実際には意根は決定を下しただけで、残りのことはすべて如来蔵が成し遂げたのです。
如来蔵が意根の心行を了別するのは、ロボットが他人の指令を了知するかのようであり、コンピュータがデータを読み取るかのようであり、コンピュータが人の手の操作を認識するかのようです。如来蔵が業種を了別するのは、コンピュータがプログラムを読み取るかのようです。如来蔵が業種を出力・実現するのは、コンピュータが特定のプログラムを完了するかのようです。したがって如来蔵は一切の法を造り出しながらも、あたかも何事も行っていないかのようであり、その了別は決して具体的な人事物の様相を了別するのではなく、一種の抽象的な了別、あたかも記号を了別するかのようなものです。それはちょうど音楽家が楽譜を識別すれば作曲できるのと同じです。
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