朝、起床する時、一つの心は起きようと思い、もう一つの心は起きたくないと思い、結局起き上がれず、重要な用事を遅らせてしまった。その後で怒りや後悔や自責の念が生じるが、一体誰が後悔しているのか、誰が自分を責めているのか、誰が怒っているのか。
意識には理性があるが、意根には理性がなく、意識よりも貪欲で、趣きや感覚に執着する。朝目覚めた後、意識は理性的に、起きて早めに支度をして外出すべきだと考える。しかし意根は趣きに執着するため、怠惰になり、起床を決断せず、快適な感覚に執着する。最終的に意識の理性が強まり、意根に起床を促し続けると、意根は起きて準備しなければならないと理解し、もはや執着していられないと悟り、仕方なく起きて着替えることを決断する。この決断を如来蔵が実行に移し、六識が協調して起床する。この事例から、意根には受(感受作用)があり、必ずしも捨受(平静な感受)ではないことが分かる。
起床が遅れて用事に支障をきたした時、最初に怒りや後悔や自責の念を抱くのは意識である。なぜなら意識は思考能力が優れており、何を遅らせたか、その重要性を理解しているからだ。意識が後悔と自責の念を抱いた後、意根も自身の過ちを知り、おそらく後悔と自責を感じる。もし意根が後悔せず、意識だけが単独で後悔しても、意根は変わらず、次回も同じ過ちを繰り返し、同様に寝床から起きられないだろう。
多くの人が過ちを悔い自責しても、その後再び過ちを犯すのは、意識が悔い改めて自責しても意根が悔い改めないため、過ちが繰り返し発生し、記憶に留めないからだ。犯しては改め、改めては犯すのは意識の働きであり、今後簡単に過ちを犯さなくなるのは意根が記憶を保持した証である。肉が改まっても骨が改まらないのは、意識の表面的な改変を示し、意根は改まらず過ちを認めない。
意識が道理を理解し実践しようとしても、主導権を持たず、必ず意根を説得して自らの考えに同意させるか、意根に強制的に同意させなければならない。意根が同意すれば決断し、遂行できる。もし意根が不本意ながら同意し、心ではまだ承服していない場合、同様の事態で次回必ずしも実行できるとは限らない。意根が道理を理解していない状態で頻繁に意識から強制されると、意根は怨嗟の感情を抱き、遅かれ早かれ爆発する。爆発しなければ心理的に鬱積する。意識が意根を説得できていない時、一旦監督を緩めると意根の本来の習気が現れる。よって意識の偽装は長続きせず、必ず本性が露呈する時が来る。
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