衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

生如法師ウェブサイトロゴ

日常法話

2018年12月24日    月曜日     第1開示 合計1123開示

意識では観察できない法が存在しないとは限らない

意根の思量と意識の分析にはいくつかの違いがある。意識の分析は比較的微細で思考は明瞭であるが、意根は細部まで緻密に捉えることができず、おおまかなことしか理解できず、大体を考慮し、粗い状況を知るに留まる。もし意根が触れることのできない法があるならば、六識はなおさら触れることも分別することもできない。意根は一切の法を見ることができ、一切の法はすなわち意根の相分である。五蘊十八界は意識も見ることができるが、意根はさらに見ることができる。したがって、五蘊十八界はすなわち意根の相分である。

もし意根に様々な受(感受)がある場合、意識はそれを観察できるだろうか?例えば、口のきけない人が黄連を食べて苦いと感じてもそれを口にしない場合、他人はその苦さを感じていることを知ることができるだろうか?苦しみは自心の受けるところであり、他人は推測するしかない。もし誰もその口のきけない人が黄連を食べたことを知らなければ、推測することさえできない。もし黄連を食べた人の味覚が鈍っていれば、彼は苦さを感じないだろうから、他人が彼が苦いと感じていると推測すれば、必ず推測を誤る。意識に智慧がない時、意根の心の行い(心行)を推測し、意根の受覚を推測しても、往々にして推測を誤る。

意根のすべての作為は必ず意識を通じて表現されなければならず、そうして初めて意識あるいは他人が知ることができる。意根が意識を通じて表現されない場合、意根に心理や心行がないと断定できるだろうか?意識が知らず、観察できない法が、その法が存在しないことを代表できるだろうか?明らかにそれはできない。凡夫が如来蔵を観察できないからといって、如来蔵は存在せず実有ではないと言うのは、それは如実の言葉ではない。同様に、意識が意根の心理状態を観察できないからといって、意根について結論を下すことも、同様に適切ではない。地前の菩薩がもし証量ある菩薩の指導がなければ、現量をもって意根の心理状態を観察することができない。そのような場合に意根について結論を下すのは適切ではなく、特にまだ悟りを開いていない者にとってはなおさらである。煩悩の覆いが断たれ、意識と意根が識から智へと転じた後に初めて、意識は少しずつ智慧を持って現量をもって意根の運作と心理状態を観察できるようになるが、それでもあまり多くを正確に観察できるとは限らない。

——生如法師の開示
前へ前へ

仏陀はなぜ無色界で説法をしなかったのか

次へ 次へ

懊悩自責の心はいかなる心でしょうか?

ページトップへ戻る