毎日、色身を観察の対象とし、色身が粒子の集まりとなり、虚妄で幻の如く実体がないことを観じて認める。行住坐臥において常にこのように観じることで、身見を断つことは早いと考えられる。結果として:一、色身に執着がなくなり、身体は健康となり、その虚妄で実体のない性質を理解し、身見を断つ。二、禅定が成就する。三、観想の能力が向上し、様々な三昧を成就できる。
順序に従って観じる。まず皮膚を観じ、次に内部の他の部分を観じ、徐々に範囲を広げ、全身が波動する粒子状態であることを確認し、その生滅無常で「我」ではないことを確かめる。
科学が証明するように、肉眼で見る一切の色法は真実の境界相ではなく、無知に覆われた認識能力は極めて劣っている。故に修行において無明愚痴を除去しなければ、自らに欺かれることなく真相を認識し、本源に帰ることができる。
この十三図を見たとして、意識心が理解したとしても、意根は理解しただろうか。否である!仮に意識が意根にこの理を一万遍繰り返し伝えても、意根は理解せず、この理を認知しない。
ではどうすべきか。禅定の中で実際に観じ、意根自らが少しずつ認識し、理解するようにする必要がある。意根は「なぜか」を求め、結論ではなく証拠と証明の過程を必要とする。正しい証明過程があれば、意根は自然に正しい結論、つまり証得に至る。
例えば「一切法無我」という言葉を、意識が心の中で毎日絶え間なく唱えたとして、二十年経っても意根は本当に一切法が無我である理由を理解できるだろうか。五陰世間全体、三界世間の万法が一真法界であり、全体が真如であることを意識が毎日意根に伝え続け、二十年後、意根は本当にこの理を理解できるだろうか。
あらゆる衆生の意根は、無量劫を超える生と死、苦難を経験してきたが、今に至るまで、意根は生死の恐ろしさを認識しただろうか。意根は生命の苦を認識しただろうか。意根は五陰の無常を認識しただろうか。意根に解脱を求める考えはあるだろうか。
全て無い。依然として仏陀の教えに依り、四聖諦の法を薫習しなければならない。意根がいつ苦を認識し、脱出を望むようになるか分からない。これにより、意根は如何なる経験を経ようとも自動的に理を悟ることはなく、深く思索し、証拠を求め、繰り返し証明を重ね、証拠が確実となって初めてこの理を認めるのである。
もし「五陰虚妄」という言葉を意識が十万遍唱えたとして、意根は五陰の虚妄を認識できるだろうか。絶対に不可能である。理は上述の通り。
毎日このように観じるならば、物質色法が刹那毎に更新変化していることを理解できるようになる。物質色法が自然に生じ変化し滅するのではないことを理解できる。衣服が自然に古びるのでもなく、人が自然に老いるのでもなく、家屋が自然に壊れるのでもないことを理解できる。一切の法は如来蔵が生じた後そのまま放置されるのではなく、全ての物質は如来蔵によって管理され、四大の微粒子は如来蔵が物質に与えたものであり、四大微粒子の不断の生滅変化は如来蔵の作用の結果である。一真法界とはこの意味である。
科学者が示した十三枚の図は証拠であるが、禅定の中で改めて詳細に観じ、自ら思索して認める必要がある。他人の結論は自らの結論ではなく、意識の結論は意根の結論ではない。各自が思索し各自の結論を導き出し、互いに代替することはできない。
3
+1