師は大衆に示して云わく、善知識よ、何を坐禅というのか。この法門においては、障りもなく妨げもない。外において一切の善悪境界に対し、心念起こらず、これを坐と名づく。内に自性の動かざるを見るを禅と名づく。
釈:六祖は言われた「坐禅というこの法門には、少しの障りもない。坐する時、一切の六塵境界に対し、善悪を問わず、心に念いを起こさぬことを定とし、これを坐と名づける。禅坐する時、空坐せず、思惟すべきである。思惟参究して初めて自性を見ることができ、自性が本来動かないものであることを見る、これが禅である。坐禅とは明心見性するものであり、百も思わず、心を用いず、定境に入ることを求めるのではない。真の坐禅とは、自性が本来揺るがないものであることを見るのである」
原文:善知識よ、何を禅定というのか。外に相を離るるを禅とし、内乱れざるを定とす。外もし相に著すれば、内心すなわち乱る。外もし相を離るれば、心すなわち乱れず。本性は自ら浄く自ら定まる。ただ境を見て、境を思えば即ち乱る。もし諸々の境を見て心乱れざる者は、これ真の定なり。
釈:禅定の概念は「外に相を離るるを禅とし、内乱れざるを定とす」である。外において一切の相を離れるとは、『心経』に説かれる如く色声香味触法なく、六根六塵六識なく、五陰十八界なく、四聖諦なく、菩薩の六波羅蜜なく、一切の相なきことを指す。内乱れざるとは、一切の境界相に対し分別起こさず、動揺せず、心念なきこと、これが禅である。
「この」とは誰を指すか。如来蔵である。坐して禅定を修める時、心は一切の境界に乱されず、心は定まる。実は如来蔵が一切の相を離れ、外に一切の相を離れ、内もなお乱れないことを指す。如来蔵は永遠に心を乱さず、常に禅定の中にある。もし禅定中に一切の境界相に執着し、善悪是非が現れる時、心は乱れる。これが禅も定もない状態である。もし妄心も真心の如く心乱れざれば、禅定を得る。この意味を分けて説けば、真心と妄心の二つの体性を指す。前半は真心如来蔵の自性を説き、後半は禅を修める時相に執着せず、執着すれば心乱れ禅定を失うと説く。禅定を得んとすれば、外に一切の相を離れ、一切の相に執着せず、心乱れざるを要す。
誰が禅定を持つか。如来蔵はそのような存在で、一切の相を離れ心乱れず、常に定中にある。汝の自性清浄心は本来清浄で、元より禅定の中にあり、定まって乱れない。修める必要はない。ただ妄心をこれに依って修め、妄心も清浄にし定中に入らしむべきである。境を見て念いを起こし相に執着せず、心を乱さぬこと。我々の妄心が境界を見て思惟すれば、心乱れ相に執着する。もし妄心が一切の境界を見て心乱れざれば、これが真の禅定である。
如来蔵もまた外の一切法を了別し、一切法に対応するが、その心は一切法の具体的境界相を知らず、善悪美醜是非を弁ぜず、故に心乱れず、これが真の定である。一切諸法の上で運作しつつ、動かずして動く。一切諸法の上で運作する時、諸法の善悪是非相を了別せず、故に心乱れず、これが真実の那伽の大定である。
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