『万物簡史』から、物質粒子について紹介するいくつかの文章を抜粋する。粒子は非常に小さいだけでなく、速度が速く、しかも一瞬にして消え去る。粒子は0.000 000 000 000 000 000 000 001秒という短い時間に出現し消滅することがある。
如来蔵(にょらいぞう)が忙しいかどうか考えてみよ。極めて忙しいが、忙しいという感覚や概念はない。物質の生滅変化は速いか。あまりにも速すぎるがゆえに、識心(しきしん)の認識範囲を超えているので、識心は観察できず、その結果、物質の変化は遅いと考え、全てが間に合うと思ってしまう。
衆生は無明(むみょう)である。自ら観察できないものは存在しないと考え、永遠に自身の観察を信じ、事実を信じることができない。
このように極めて速く生滅変化するものに、何の真実性があろうか。何の障害性があろうか。それなのに我々は色身(しきしん)に固執し、物質的な身体は実在し、堅固で変化せず、自由に通過できると考える。意根(いこん)の固執によって、本来は万物を通じ容れる身体が、万物によって妨げられ、一点の自由もない。実際には自心が自心を妨げているのである。心を融かしてしまおう。
だから決して我見(がけん)を断つことが容易だと考えてはならない。朝飯前だとか、二冊本を読んだだけで我見が断てるとか、数時間講義を聞いただけで我見が断てるとか、意識で推し量るだけで我見が断てるなどと思い、それ以後は三悪道(さんあくどう)と縁が切れるなどと考えてはならない。そんなに単純なことではない。そんなに容易なことではない。世の中に初果(しょか)で我見を断った人が溢れているなどというのは夢物語であり、夢の中ですら起こらないかもしれない。
修行とは、誠実に努力を重ねて修養を積み上げることであり、近道はなく、小細工でうまくやることはできない。
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