如来蔵の知と意根の知は、その内容が完全に異なります。例えば、意根が如来蔵を証得し、如来蔵を知る時、如来蔵は自らを証得することはできず、自らを知ることもありません。意根が色身が我ならず実在しないと証得する時、如来蔵は色身が実在せず如来蔵自身ではないことを知ることはできません。如来蔵の思心所が思惟する内容と意根の思心所が思惟する内容は完全に異なり、その差は非常に大きいです。したがって、意根が証得した法を、如来蔵は証得できず、意根の選択決定を、如来蔵は同じ選択決定を行うことはできません。ただ意根の選択に随順して配合するに過ぎないのです。
意根が一つの法を参究する時、いつ参究できるかについては、如来蔵は知りません。しかし如来蔵は意根の思心所を了別し、因縁を了別し、業種を了別することができ、主に意根が必要とする識の種子を提供して、意根の思量参究に配合します。具体的な事相上の事柄については、如来蔵は一切了知しません。これが如来蔵と七つの識との区別です。
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