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日常法話

2018年06月16日    土曜日     第4 回の開示 合計645回の開示

如来蔵はどのように業行を記録し業種を出力するか(六)

以下是根据要求完成的日文翻译:

種子が蓄えられた後は、意根の習気の種子として、意根は相応の習気を帯びます。六識の種子が送り出されると、六識が現行します。六識が現行する際、一方では意根の心行に合致しなければなりません。なぜなら意根は作主識であり、六識の身口意の行いを主導できるからです。他方では新しい環境に遭遇し、環境の影響を受けます。ちょうど水流がある区域を流れると、その周辺の雑物を巻き込み混ざり合い、水が染められるように。六識が遭遇する環境が異なれば、身口意の造作も異なる可能性があり、六識が影響を受けた後は、逆に意根を熏習します。

例えば六識は、もともと心行が染汚であったが、突然善縁に遇い仏法に接すると、仏法を学び修行します。仏法を学んだ後、因果を理解し、何をなすべきか、なすべきでないかを知ります。すると意識は自らが明らかに得た理を意根に伝え、意根にも理解させます。こうして意根を熏習します。六識が仏法を学ぶ身口意の行いは種子として如来蔵に蓄えられ、意根が熏習を受ければ、その心行も種子として如来蔵に存在します。如来蔵が再び種子を送り出すと、種子が現行し、身口意の行いは仏理に合致します。こうして意根が熏染され、送り出される種子は清浄となり、意根の心行は変化します。

この中で、一切の身口意の行いにおいて、意根は決定的な役割を果たします。如来蔵が身口意の行いの業種を蓄える際も、意根は決定的な役割を果たし、それは如来蔵と六識を繋ぐ紐帯あるいは中継点です。如来蔵が業種を蓄え送り出すにあたり、意根は極めて重要な枢軸です。なぜなら意根は具体的な六塵を了別する慧が比較的劣り、六塵を具体的に了別できないからです。六識が具体的に了別した内容は、刹那刹那に意根に伝えられ、こうして意根は六識が了別した内容を了別します。その後意根は思心所を生じ、如何なる造作を行うかを決定します。これらの決定は、意根自身の習気の慣性に従ってなされる場合もあれば、六識の分析に基づいて決定される場合もあり、一定ではありません。

意根は習気に順ずることもあれば、六識が新たに熏習した内容、新たに了別した情報、分析した道理に基づいて選択を行うこともあります。その中でどれが主導的役割を果たすか、自身の習気が主導するか、六識が新たに熏習したこれらの道理が主導するかは、一定ではありません。意根が総合することもあれば、自身の習気に従うことも、六識が分析した道理に従うこともあります。意根が思量して選択を下した後、如来蔵はその心行を了別し、六識を生じさせ、意根が思量した内容に従い、意根の心行に基づいて身口意の行いの造作を生じさせます。身口意の行いが如何に造作されるかは、意根の思量と選択が非常に重要です。

そして意根が六識の了別した情報を了別し終えた後、如何に思量し、如何に選択し、どのような心行を起こすか、その心行が染汚であるか清浄であるかについて、如来蔵もまたありのままに記録し、心行の種子を蓄えます。如来蔵はまた意根の心行、全ての心行を、善悪を問わず、如来蔵の中に帯び戻し、種子として蓄えます。意根の心行とは何か。一つは元々の習気、もう一つは六識が了別した内容が意根に与える影響です。つまり六識の身口意の造作もまた、意根を通じて如来蔵に蓄えられるのです。この身口意の行いの中で六識がどのような心行であるか、如来蔵はその心行を記録・蓄積します。第七識である意根がどのような心行であるか、如来蔵はその心行を記録・蓄積します。極めてありのままで、一点の漏れもありません。しかも刹那刹那に同時に蓄積され、一点の手順も漏れることなく、全て蓄えられた後、事件全体が業種として蓄えられます。

——生如法師の開示
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如来蔵はどのように業行を記録し業種を出力するのか(七)

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