衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2018年06月16日    土曜日     第3 回の開示 合計644回の開示

現量を証得して初めて、意根を変えることができます

末那識(意根)はどのように変化するのか。ただ現量(直接体験)によって証得するのみで、初めて末那識を変化させることができる。これ以外の方法では末那識を変化させることはできない。例えば、子供は火の危険性を理解しておらず、大人が火遊びをしてはいけないと言っても聞かない。ある日、火に焼かれて事故に遭い、初めて火の恐ろしさを知り、それ以降火遊びをしなくなる。これは末那識が直接火の恐ろしさを証得したためであり、改めて思惟観察する必要なく、直ちに認め、直ちに記憶に刻まれ、直ちに今後火遊びをしないと決心する。こうして末那識は火遊びの習慣を変えるのである。例えば、喫煙は健康に有害だと広く宣伝されているが、喫煙者はなおも僥倖(ぎょうこう)を抱き、ある日肺病を患って初めて禁煙しようとする。末那識がニコチンの有害性を直接証得したため、喫煙の習慣が変わるのである。多くの事例が示すように、末那識が自ら経験し、直接証得して初めて信じ、信じた分だけ改める。信じる度合いに応じて、改める度合いも決まるのである。

証果(悟りの段階を得ること)もまた同様である。五蘊(五陰)十八界が無我であることを直接証得した時、末那識は変化し、解脱の功徳を受用する。証得した度合いに応じて変化する度合いも定まり、初果から四果に至るまで、末那識は五蘊十八界の無我の理に対する直接的な証得を深め続け、認識を絶えず深めてゆく。五蘊の無我性を全て直接証得し、一念の無明が断じ尽くされた時、我執も断じ尽くされ、三界の世間から解脱し、もはや何ものをも造作(作為)することがなくなる。前三果の段階では、末那識の証得の深さはまだ十分ではなく、煩悩と一念の無明が断じ尽くされておらず、なお造作することがあり、直ちに三界の世間から解脱することはできない。ましてや慧解脱の阿羅漢は、禅定が不足し、神通を直接証得していないため、自在に行き来する能力がなく、五蘊には制限がある。

もし末那識が初果の時に我見を断たないのであれば、いったいいつ我見を断つのか。結局のところ我見を断たねばならないが、いったいいつ断つのか。それは初果の時に我見を断ち、その後、修行を深めて煩悩と無明の思惑(思惑の煩悩)を断除するのである。つまり、再び深く五蘊十八界の法について観行思惟(観察し思惟すること)を行い、無我の智慧を絶えず深め、末那識がより多くの証拠を得て、より深く証得し、より大きく変化し、ついには煩悩を断除し、我執を断除し、三界への貪愛を断除するに至る。これは小乗の方面におけることである。

これは我見を断つことの程度の差、智慧の違いが、末那識の転変する程度の違いをもたらすことを示している。初果から四果に至るまで、それは末那識が五蘊無我の智慧を証得する深さの段階が異なるため、得る果位が異なり、煩悩の有無の段階が異なり、我執の降伏と断除の程度が異なるのである。大乗の証果もまた同様で、如来蔵を証得する深さの段階が異なり、智慧が異なり、無明の断除の程度が異なるため、果位が異なるのである。

大乗の方面では如来蔵を直接証得する。証得した時に末那識は変化し、証得した度合いに応じて変化する度合いも定まる。仏地における直接証得に至るまで続き、末那識は徹底的に変化し、完全に識(しき)が智(ち)に転じ、もはや転変する必要がなくなる。仏は無住処涅槃の中に安住するのである。

——生如法師の開示
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