種子が保存されると、それは末那識の習気の種子となり、末那識は相応の習気を帯びる。六識の種子が送り出されると、六識が現行する。六識が現行する際、一方では末那識の心行に合致しなければならない。なぜなら末那識は作主識(主宰する識)であり、六識の身口意行を主導するからである。他方では新しい環境に遭遇し、環境に染まることがある。それはあたかも水流が区域を流れる際に、その周囲の雑物を巻き込み混ざり合うことで水が染まるようなものである。六識が遭遇する環境が異なれば、身口意の造作も異なる可能性があり、六識が染まった後は、逆に末那識を染めることになる。
例えば六識は、もともと心行が染まっていたが、突然善縁に遭遇し、仏法に出会って仏道修行を始める場合がある。仏法を学んだ後、因果の道理を理解し、何をなすべきか、何をなすべきでないかを知る。すると意識は自らが理解した道理を末那識に伝え、末那識にも理解させようとする。これにより末那識が染められる。六識が仏道修行を行う身口意行は種子として阿頼耶識に保存され、末那識が染められた場合、その心行も種子として阿頼耶識に保存される。阿頼耶識が再び種子を送り出すと、種子が現行し、身口意行は仏理に合致するようになる。こうして末那識が染められ、送り出される種子は清浄となり、末那識の心行は変化する。
この過程において、あらゆる身口意行に対して末那識は決定的な作用を果たす。阿頼耶識が身口意行の業種を保存する際も、末那識は決定的な作用を果たす。末那識は阿頼耶識と六識を結ぶ紐帯あるいは中継点である。阿頼耶識が業種を保存し送り出す際、末那識は極めて重要な中核である。なぜなら末那識の具体的な六塵に対する了別慧は比較的劣り、六塵を具体的に了別することができないからである。六識が具体的に了別した内容は、刹那刹那に末那識に伝えられる。こうして末那識は六識が了別した内容を了別する。その後、末那識は思心所を生起し、如何なる造作を行うかを決定する。これらの決定は、末那識自身の習気の慣性に従ってなされる場合もあれば、六識の分析に基づいて決定される場合もあり、一概には言えない。
末那識は習気に順ずることもあれば、六識が新たに染めた内容、新たに了別した情報、分析した道理に基づいて選択をすることもある。そのうちどれが主導的役割を果たすか、つまり自身の習気が主導するか、六識が新たに染めた道理が主導するかは、一概には言えない。末那識は総合的に判断するかもしれないし、自身の習気に従うかもしれないし、六識が分析した道理に従うかもしれない。末那識が思量して選択を下した後、阿頼耶識はその心行を了別し、六識を生じさせる。そして末那識が思量した内容に従い、末那識の心行に基づいて身口意行の造作を生起させる。身口意行が如何に造作されるかは、末那識の思量と選択が極めて重要である。
また、末那識が六識の了別した情報を了別し終えた後、如何に思量し、如何に選択し、どのような心行を起こすか、その心行が染まっているか清浄かについては、阿頼耶識もまたありのままに記録し、心行の種子を保存する。阿頼耶識は末那識の心行、あらゆる心行を、善悪を問わず、全て阿頼耶識の中に帯び戻し、種子として保存する。末那識の心行とは何か。一つは元々の習気、もう一つは六識が了別した内容が末那識に与える影響である。つまり六識の身口意の造作もまた、末那識を通じて阿頼耶識に保存される。この身口意行において六識がどのような心行であるか、阿頼耶識はその心行を記録・保存する。第七識である末那識がどのような心行であるか、阿頼耶識はその心行を記録・保存する。極めてありのままで、一点の漏れもない。しかも刹那刹那に同時に保存され、一点の過程も漏れることなく、全て保存された後、事件全体が業種として保存される。
1
+1