衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2018年12月23日    日曜日     第2 回の開示 合計1119回の開示

因縁条件が具足してこそ悟道は可能である

証果と明心の条件が具わっていれば、相応する因縁に遇う時、それが人為的に仕組まれたものであれ自然環境であれ、内心を触発するものであれば、証果と明心が可能です。もし仏の説法に遇えば更に証果と明心見性しやすく、仏の威徳と加持力は非常に大きく、仏の説法の法会が持つ磁場効果も極めて大きいのです。況してや仏在世の修行者は普遍的に甚深な禅定を有し、心が清浄で出離心を持ち、煩悩が微細であり、善根と福徳が深厚であったため、法を聞くやいなや仏の音声に随って観行思惟し、直ちに証果と明心を得ることができたのです。

もし仏法を学んでも修行が不十分で、内心に疑情がなく、参究する心が起こらず、心に念々在茲がなければ、たとえ多くの悟道の因縁に遇っても徒に過ぎ去り、悟道することはできません。末法の衆生は仏在世の衆生とは比べものにならず、善根が浅く福徳も薄く、内心が浮ついて禅定がなく、仏法がどれほど詳細に説かれても心に入らないため、真実の証果を得ることはできず、せいぜい理解する程度が精一杯です。

まさに衆生が普遍的に禅定を具えていないため、「禅定を修めず直接に仏法を観行すればよい」という説が現れました。しかし禅定がなければどうして観行の能力が得られようか。いったい何を観行できるのか。どれほどの時間観行できるのか。各自で試してみれば、禅定を修める前の観行と修めた後の観行の効果の差がどれほど大きいか、まさに雲泥の差であり、結果が本質的に異なることが分かるでしょう。

一つの法義を、禅定中有りで思惟するのと無しで思惟するのとでは、全く別物です。だから多くの人が仏法を思惟しても真実義を理解できず、誤解が多く、実際の証得や現量観行は極めて困難です。それでも多くの人は自らの理解力を過信し、よく経文を引用して自説の根拠とします。実は経文の意味と自説は一致せず、多くの誤解に気付いていません。経典を研究する者でも真の義理を如実に理解できず、自分を過信しています。仏法は研究で得られるものではなく、甚深な禅定による理にかなった思惟観行参究によって初めて真に理解し実証できるのです。研究では実証できません。

一部の人は仏典に「衆生が仏の説法を聞いたその場で証果と明心を得た」とあるのを見て、彼らは禅定を修めずに直ちに証果したように錯覚し、法を聞いて少し思惟すれば証果できると思い込んでいます。この誤解は甚だ大きく、実際に即座に証果した人々は既に禅定を具え、善根福徳が深厚で因縁だけを待っていたのです。仏の説法という最殊勝な因縁に遇えば、当然容易に証果と明心見性できたのです。彼らは最終結果だけを見て、証果者がそれまでに歩んだ修行の道程や、説法を聞く前の精進や発心・行持、禅定修行などの必要条件を見ず、断片的に最終段階だけを切り取るのは最も深刻な断章取義です。

現代人は焦燥感から近道を求め、簡単で直接的な方法を好み、仏が歩んだ道さえも避け、自らの方法が仏より実用的で直接的だと勘違いしています。凡夫が仏より優れ、仏より智慧があると言うのでしょうか。仏の修行は回り道で、自らの道が最も直接的で基礎も不要、代償も払わず、禅定修養で自心を調伏する必要もなく、研究だけで大成果を得られると? 痴人の夢物語です。研究で得た果は紙細工のようなもので、風に吹かれれば崩れ、火に遇えば溶けます。今世間の偽果は多く、大根判子同然で風前の灯火、死後の果報は自ら知るべきです。

——生如法師の開示
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