衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2021年04月02日    金曜日     第2開示 合計3259開示

尋伺の定においてまさに参禅すべし

問:浅い禅定の状態において、意識と意根を鋭敏な「伺(き)」の状態に置く。この鋭敏な「伺」の状態では、かすかに自身の身体を「見」ているように感じ、周囲数十メートルで起きている微細なことを鋭く覚知できる。識心が「伺」の状態にあるとは、意識と意根が共に集中し、受動的に周囲で起きることを感知しているが、識心は起きていることに対して故意に注意を向けたり識別したりせず、ただそのことが起きていることを知っている状態、いわば「冷静に観察し、心を動かさない」ような状態を指す。この状態は如法(正しい修行)と言えるか?

答:伺の状態はもちろん禅定であり、しかも浅い定ではない。尋(じん)の状態も禅定であるが、それは浅い定であり、心の動きが多いためである。伺の状態では、心は動かずとも知覚があり、長時間続けることで知覚対象に対して智慧的な認識が生じ、知覚する法(現象)を見破り、法が空であると知れば心も空となり、捨(しゃ)の状態に到達する。尋も伺も対象があり、かつ対象が専一であるからこそ禅定が現れる。ある禅定には慧(え)がなく、ある禅定には慧がある。禅定に所縁(しょえん:対象)があって初めて慧が生じ、そうでなければ慧はなく、純粋な定のみである。尋と伺は共に清明定(しょうみょうじょう)であり、正定に属する。しかし尋の段階では定が浅く動きが多く、静かさが足りない。伺の状態は参禅の後期の状態であり、最も智慧が生じやすい。この時は意根を主とする思量の段階であり、意識は動かず、あるいは動いても少なく微細である。

問:非常に静かな環境でこの「伺」の状態を保つと、次第に周囲の時空が凝固したように感じられ、身体も有るようで無いようになり、識心は身体の外に遊離して静かに一切を「感知」しているように感じられる。この状態から出た後、自身の思考力と感知力が普段よりかなり強くなっていることに気づく。これはおそらく識心が集中を保ったことによる効果だろうか?この「伺」の状態が次第に長くなるにつれ、意識と意根の集中力がますます高まり、覚知力もますます鋭敏になる。さらに呼吸と心拍がますます緩慢に、細長くなり、このまま呼吸や心拍が止まって死んでしまうのではないかと心配になる。

答:伺の状態では、意識はただ一つの「知る」という働きを保ち、余計な心の動きがなく、意根が妨げられなければ、深く微細で専一な思量が起こり、慧が生じやすくなる。意根の慧が一旦生じれば、所縁境(対象となる境)を見破り、所縁境を空と見ることができ、悟りを証しやすくなる。もし伺の状態に到達していなければ、意識の思惟が活発になり、意根の思量は阻害され、真の智慧は生じない。意識が思惟・推理・分析・判断した結果は、意根には届かず、意根はそれを受け入れない。そのため、その人の意識がどんな見解を持とうとも、結局は見解は見解のままで、心の行い(心行)は心行のままで、互いに交わることがなく、修行は依然として道にかなっていない。世の中には自分は悟りを証したとか明心したなどと言う人が大勢いるが、身心世界には少しの変化もなく、逆に煩悩はますます重くなり、慢心がかえって盛んになる。それは意識が分析・思惟して一つの理を導き出しても、意根がそれを認めず、思い考え行動することが依然として元のままであり、昔と同じ人、昔と同じ行いをしているからである。名は聖人の名であっても、心は凡夫の心である。そして次々に退転し道を退くのは、実に気の毒である。

——生如法師の開示
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