衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

生如法師ウェブサイトロゴ

日常法話

2021年04月02日    金曜日     第1開示 合計3258開示

修行は心の掃除です

独影境の顕現は、意根が法塵に攀縁し法塵に作意して念を起こすことにより、如来蔵が独頭意識を生じて意根の指令を完了するものである。意根がどの法に作意するかによって、独頭意識はその法の上に生じ、その後意根の意のままに運行する。意識の念が起きて初めて知が生じ、知られる法とは情報に類似した法塵であり、五塵とは関係がない。それは思想観念であるかもしれず、回想であるかもしれず、未来への憧憬であるかもしれず、問題に対する思惟分析判断であるかもしれない。意根が回想を求めれば、意識は過去の人や事を追憶し、意根がある言葉の意味を知ろうとすれば、意識はその言葉を思惟分析し、意根が翌日の行程を考慮しようとすれば、意識は翌日の行程手配を思惟する。

独頭意識が念を起こすのは、意根に牽引され、意根の念や考えに随って生滅し動転するものである。例えば意根が一個人を思い浮かべると、第八識は直ちにその人に関連する法を現起させる。意根が触れて思惟した後、検討しようと決断すると、独頭意識が出現してその人の法に作意し、触・受・想・思が起こる。すると意根は知った後に決定を下し、その後独頭意識は引き続き深く運行するか、あるいはこの法の上で消失し、他の意根が攀縁する法の上に出現する可能性がある。

意根の種々の攀縁から独頭意識の雑念が生じる。念が生じた直後の瞬間には境は顕現せず、第一の瞬間に念の発生を知り、その後で境像が生じる。念の発生と境の顕現には過程が存在する。境界は元々そこに存在していたが、意識がなければ知ることができない。意識が出現すると、第一第二刹那の了別は不完全で不明瞭であり、第三第四刹那の了別によって初めて結論が得られ、法の輪郭が現れる。その後さらに思惟分析が行われ、初めて法が明らかになる。心の中の雑念は、大部分が過去に経験したものであり、曾習境と呼ばれる。これにより意根が法に対して常に有意無意に執着し、慣性の力が強く、心が空ではなく、経験した全ての人・事・物理現象を手放せず、心の中で旋回させて捨てようとせず、心の間にゴミが積み上がり、汚穢で不潔であることが分かる。これまで一度も清掃したことがない。

修行とは、常に心の中の衛生を清掃し、大掃除・大整理を行い、心の地を清潔に保つことである。そうして初めて心の部屋が光明に満ちる。清掃は意識が主導し監督し、意根が同意すれば、やはり意識が清掃を行う。計画策定と事務執行は全て意識が担当し、意根はただ頷いて指令を下し決裁するだけでよい。

——生如法師の開示
前へ前へ

父子合集経講義(一八二)

次へ 次へ

尋伺の定においてまさに参禅すべし

ページトップへ戻る