衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2018年06月20日    水曜日     第3 回の開示 合計659回の開示

最正の道と根本の修行

阿羅漢や縁覚仏たちは三界の世俗法を完全に捨て去りましたが、それでもなお自性清浄心を悟ってはいません。彼らは行住坐臥の四威儀において常に念想を起こさず、目で色を見る時、眼識が色に接触するとそのまま止まり、それ以上に受想行などの身口意の行為を生じさせず、ましてやこの色を分別せず、心を動かし念を起こすこともありません。他の五根も同様です。六根が六境に接触してもただ触れてすぐに離れ、心の清浄を保っています。これ以上の修行者がいるでしょうか。しかし彼らが得られるのは小乗の涅槃に過ぎません。菩薩たちは六塵の境界を恐れず、六塵が全て自心が変じた幻化相であることを明らかに知り、根本的に執着しません。六塵を使うべき時はそのまま用いますが、六塵は根本的に菩薩の心を侵すことができないのです。

したがって究竟なる悟りを得て仏となるには、菩薩の法を修める必要があります。菩薩の六波羅蜜を修行し、福德を備え、戒律を守持し、精進して般若智慧を修め、相応する定力で公案に参究して初めてその心を悟ることができます。これが最も正しい根本的な修行です。

百尺竿頭の意味は、まだ竿の上にあり、世間法の頂点にある状態を指します。これは一切皆空の境地に落ち着いており、まだ究竟ではありません。さらに五陰世間の背後にある本質的なもの、五陰世間の虚妄なる存在を支え顕現させるものを探求する必要があります。ある者は内心に念想が無いことを以って空であると考えますが、これは実相の境界ではなく、一種の定境です。不生不滅で万法を生じさせる真実の存在があり、それを証得しなければなりません。つまり百尺竿頭の上にさらに一歩を進め、その真実有なる空性心を証得すれば、空から有へと落ち着くのです。本来無一物とは百尺竿頭の境地であり、後に応無所住の心を悟って初めて、この心が空ではなく万法を生じさせることを知ります。これが実相を証するということなのです。

——生如法師の開示
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