我々は、如来蔵が常に作用し続けており、刹那たりとも作用を停止することはありえないことを理解しています。如来蔵はあらゆる時、蘊、処、界、地に遍く存在し、一切の法に遍満しています。しかし、ここで言う「常に」とは、始めも終わりもない永遠の意味ではなく、あくまで一定期間にわたっての持続を指します。したがって、一つの事象における如来蔵の作用を悟得した智慧は、まだ非常に浅いと言えます。さらに参究を深め、智慧をさらに開く必要があります。如来蔵のより広範な作用を悟得するだけでなく、如来蔵のより深遠で微細な作用をも悟得しなければなりません。
さらに観察を進めると、如来蔵が始めも終わりもなく一切の法に遍満し、五陰色身においても、あらゆる事物や現象においても、六根、十二処、十八界においても、常にこのように作用しており、決して停止したことがなく、一瞬一瞬このように作用し続けていることが明らかになります。この境地に至ると、悟得した智慧はおそらく面として繋がり、あるいは一片となるでしょう。この一片にも小片、中片、大片の区別があります。
証得した如来蔵の作用の範囲がどれほど広いか、つまりこの一片の大きさによって、智慧の深さが示されます。これによって各人の智慧の程度を判断します。観行の智慧が深まるにつれ、大きな一片として繋がるに至れば、おそらく牢関に達し、あるいは牢関を突破して、さらに初地に到達する可能性もあります。それに対し、最初に如来蔵の作用を証得した段階では、ただ一点、一箇所に留まり、その後線として繋がるに過ぎず、それは菩薩の七住位に相当します。智慧はまだ深いとは言えませんが、それでもこの境地に至ることは既に非常に困難なことなのです。
第六識が如来蔵を見出し証得するとは、如来蔵が起こす様々な働き(利用)を捉えることです。最初に証得する智慧は非常に浅く、一瞬の間に如来蔵がこのように作用していることを捉えるに過ぎないかもしれません。その後、捉える面積が少しずつ広がり、範囲が次第に拡大するにつれ、如来蔵の作用にはある程度の連続性があることを証得できるようになります。最終的には悟りの程度が深まり、あらゆる側面から如来蔵の作用を観察できるようになれば、その人の別相智が現れるのです。
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