如来蔵が五蘊の作用に配合する働きは非常に深微であり、刹那刹那の連続性を有している。各人が如来蔵の働きを証得する程度はそれぞれ異なり、その智慧の程度も異なる。悟り以前における第六識の智慧の深浅によって、如来蔵を証得しその働きを捉える程度と深さが異なるのである。参究する際に心が極めて細やかで、定力も十分にあり、参究の範囲が広く、探究の箇所も深く細やかな者は、より透徹した悟りを得る可能性がある。
逆に、定力が不足し心が粗い者は悟りが非常に浅く、その智慧は根本的に開発されていない場合がある。特に他人からほぼ明示的に教えられた者は、如来蔵が何らかの作用を起こしたことを知るのみで、他の一切を知らず、厳密に言えばこれは証悟とは言えない。真に証悟した者は、最初は如来蔵と五蘊・七識が如何に和合して作用するかを観察できないかもしれないが、直ちに思惟整理を始める。特に智慧深細な先達者に指導されれば、如来蔵と五蘊七識の和合作用を観察し、如来蔵の働きの細部を知ることができ、その後速やかに観察智を具足するのである。
ある者は悟後ただちに牢関の境地に至り、三関を突破する者さえいるが、このような者は極めて稀有である。ある者は七住位で悟り、小さな断片的な理解を得るに留まり、如来蔵の働きを連続的に把握できない。より智慧深き者は如来蔵の作用を六根全体(眼根・耳根のみならず)において如何に発現するかを知り、各々の事象が具体的に如何に成就されるかを理解する。
その後、五蘊・十二処における如来蔵の連続的な機能作用を詳細に知るに至る。最終的には如来蔵の初歩的な作用から、より深微な作用を観察できるようになる。智慧が深まり牢関を突破すれば、如来蔵の心所法の働きを観察できるようになる。これは極めて深微な智慧の境地であり、この段階に至ればすでに地上の菩薩となっている。如来蔵を観行する智慧には深浅広狭の差があり、証得した如来蔵の智慧の程度に応じて大乗の果位が異なるのである。
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