衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

生如法师のウェブサイトロゴ

日常開示

2018年06月24日    日曜日     第1 回の開示 合計671回の開示

意識が観察できない法は存在しないのでしょうか

意識の思量性は顕在的で観察しやすいが、意根の思量性は隠秘的で観察しにくい。これは意識の自己反観力が比較的強く、独頭意識が五俱意識と独頭意識の一部の運行相を観察できるが、完全には観察できないためである。識を智に転じていないからである。仏はすべてを観察でき、地上の菩薩の道種智は大部分を観察できる。

独頭意識は煩悩の障りを受け、禅定の力が不足し、識を智に転じていないため、意根の運行相を観察できない。そのため意根の思量性を隠秘的と言わざるを得ないが、実際には仏や識を智に転じた菩薩にとっては、依然として意根の行相を観察しやすい。

隠顕は完全に人によるもので、意識と意根そのものによるのではない。意根も証自証分を有し、微弱な反観能力によって自らの運行相を観察できるが、意根はそれを表現できず、意識(いわゆる我々)は知ることができない。意識が意根の運行相を知らない以上、意根の反観力が強弱いずれであるかも、意識は依然として知り得ない。

意識が知り得ない事柄に対して、多くの人の意識は存在しないと否定する傾向がある。ならば意識が地球の公転と自転を観察できない場合、地球が不動で静止していると言うことも可能だが、それは事実に合致しない。

凡夫の意識は果たしてどれほどの事実と真理を観察できるのか。ほとんど観察できず、無明が余りに深く厚く、障りが重い。無明が深い者ほど自らの無知を認めず、自らの判断を信じる傾向がある。これを無奈という。

——生如法師の開示
前の記事前の記事

第六識はどのように如来蔵を証得したと言えるのか(五)

次の記事 次の記事

仏法の修学は結果より過程が重要です

ページのトップへ戻る