意識の観察と思念、その過程と結果は、意根に影響を与え、意根に確信させることができる。同様の想いと思念が存在し、意根の想いと思念が成就すれば、諸法は必ず成就する。なぜなら如来蔵がそれを支えているからである。意識の行う一切は、意根を薫染し影響を与えて意根を変えることにほかならず、これ以外に実質的な意味はない。意識は主導権を持たず、社長ではない。社長の後ろには会長がおり、これが最も強大である。
したがって、私たちが仏法を修学する際には、必ず思惟を起こす必要がある。深く細やかであればあるほど良く、包括的であればあるほど良い。その過程こそが意根に理解と確信をもたらす過程である。過程がなければ、意根は確認することができず、一切は成就しない。ゆえに過程は結果よりも重要である。多くの人々は仏法を学ぶ際に結果のみを求め、過程を求めない。それではどうして仏法を実証し、それによって自己を変え、一切を変えることができようか。
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