衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2018年12月20日    木曜日     第2 回の開示 合計1114回の開示

意根と意識の主従関係

一切の法は意根という主人が必要とするものであり、六識は意根の主人に奉仕するために存在し、主人の指令に従わなければなりません。ただし主人も時には従者の意見や助言を聞くことがあります。例えば意根が水を飲みたいとすれば、如来蔵がこれを了別した後、六識を生起させて水を飲むという行為を造作します。意識は水の飲み方や手順を考え、その後身識や眼識と協力してコップを取り水を注ぎます。意根がどのような水を飲みたいかによって意識はその水を準備し、意根がいつ飲みたいかによって意識はその時間を調整します。最終的に六識が協力して水を飲む行為を完成させ、正確には七識八識が共同でこの行為を成し遂げるのです。

もし意根が水を飲むことを欲しなければ、六識は生起して水を飲む行為を造作しません。意識は永遠に意根ほど重要ではなく、意識は意根の必要に応じて随時生起する法であり、意根によって決定され、従属的な立場で意根に奉仕しなければなりません。もし意識が意根を十分に奉仕できなければ、意根は不機嫌になり、心が不安定になり、情緒不安定や鬱状態、あるいは精神異常を引き起こす可能性があります。意識が長期間にわたり意根に強く逆らう場合、意根は精神錯乱や分裂症、あるいは発狂に至る恐れがあります。

意根が音声を聞きたいと欲すれば六識は生起して音声を分別し、意根が指示する場所に六識は赴いて業務を遂行します。ただし業務過程において、意識は随時意根に提案を提供したり要求を提示することができ、意根が承認すれば実行に移されます。六識はすべて意根の指令に服従しなければなりません。意根が六塵に対して何らかの意図を持てば六識は出現してその意図を実現しますが、意根に特に意図がなければ六識は現れません。意根という主人の権限は非常に大きく、六識は往々にして無意識のうちに意根に駆り立てられ、盲目的に多くの行為を行いながらもその理由を知りません。意根が六識にどのように造作するかを命じれば、六識はその通りにしなければならないのです。

我々が仏法を修証する際、意根に力を注がず意識心だけに注力するならば、力を尽くしても意識は滅び、何の結果も残りません。もし悟りの証得を意識心のみで求めれば、証得後には消滅し、来世でも生死を繰り返し、依然として無明に支配されるでしょう。意識心だけで無明を破ることは無意味です。意根の無明こそ根本無明であり、生死の問題は意根の無明にあり、十二因縁の根本も意根の無明にあります。従って最初に意識に注力するのは、意根に影響を与え陶冶するためです。意識は拡声器のようなもので、伝達の道具であり、意根の分析思考を補助し、最終的に意根に確認させて変化を促します。これが仏道修行の根本かつ最終的な目的です。

意根が変化すれば、意識の薫染作用も終了し、以後意根は意識を完全に善業造作へと導くことができます。意識は従属的な立場にあり、参謀や伝令兵のような存在です。意根は大抵の場合これを使用しますが、ごく稀に使用しないこともあり、その場合意識は何の役割も果たしません。例えば我々が指導者に用事を頼みたい時、まず秘書に事情を理解させます。秘書は意識に相当し、秘書が指導者に詳細を報告し、指導者が事情を把握して初めて援助を決定し、事が成就するのです。

意識は門番のような存在です。我々が指導者に面会するにはこの門番を通らねばなりませんが、門番の所に留まり関門を突破できなければ永遠に指導者に会えません。古今東西、多くの修行者が意識心の中で回転し続け、ついに門を得られずにいます。我々は悟りを開こうと念じながら、意識の外側で回り続け、意根に入って修証しないため悟れないのです。仮に門番が面会を許可しても指導者が拒否すれば問題解決できず、門番の言葉は無意味です。指導者の許可があって初めて入場し問題を解決できます。従って仏法が如何に優れていようと、必ず意根に修証させ確認させ、意根に五陰無我を証得させ如来蔵を悟らせねばなりません。意根が証得すれば永遠に六識を正しい道に導き、善業を造作し善果を得るのです。

——生如法師の開示
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