天下本无事、庸人自ら之を悩ます
夢から覚めてもなお夢境を追想し続け、夢の中に浸っている者がいるならば、その人はただ自ら疲労を重ね、何も得るところがないことを知るべきである。ただ心を空しく消耗させているだけで何の役にも立たず、意識が虚妄の受用を貪ることは、一時的な心理的慰めを得るに過ぎず、実際には何の益もない。存在しない人や事に執着するこのような識心の覚受はあまりにも虚妄である。衆生は無始劫来、実在しない人・事・物・理に執着し、自ら悩み苦しんできた。外側には元来何事もないのに、ただ私たちの意識が幻想と妄執を繰り広げているだけである。天下に元来事は無く、愚者が自ら悩みを招く。我々は皆愚者であり、外側の事象を真実と思い込み、それによって心が絶えず翻弄され、湧き立てられる。全ては実体の無い事柄であり、自ら進んで苦恼を探し求めているに過ぎない。
真に万法が空・無相であることを証得すれば、心は動じなくなる。心が動じなければ清浄自在となり、動じない心は寂滅楽を得る。これが最も至福の境地であり、その楽には一切の煩悩が存在しない。世間の人々の楽には必ず煩悩が伴う。親族の団欒は喜びであると同時に煩悩であり、結婚出産は楽しみであると同時に煩悩を生じ、結局苦恼に繋がる。全て清浄自在ではない。しかし寂滅楽に至修した時、微動だにしない心には一点の煩悩や焦燥も存在しない。我々は今、煩悩も情緒の動揺も無い心境を想像することさえできないが、真にその楽境を味わえば、最早些かも世俗の境界に貪着しようとは思わなくなるであろう。
我々の阿頼耶識には元来微塵も煩悩が無く、常に寂滅楽の中に安住している。何故か。それは眼を持たずして見ず、耳を持たずして聞かず、鼻を持たずして嗅がず、舌を持たずして味わわず、身を持たずして触覚せず、意を持たずして法を思わないからである。何らの心境も存在しないが、愚者ではない。阿頼耶識を証得していない者には理解し難く、我々が禅定で得る楽、世間における親族団欒の楽、出世栄達の楽とは全く異質の性質を有する。寂滅楽には一切の楽が無く、世間の全ての法を見ず、貪着せず、混乱も動乱も無い。世間の楽は全て動乱の中にあり、不寂静であり、煩悩と苦恼に満ちている。
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