衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常開示

2021年03月29日    月曜日     第2 回の開示 合計3243回の開示

父子合集経講話(一七五)

天下元々事無く、庸人自ら之を擾わす

夢が覚めてもなお夢の記憶に囚われ、夢境に浸り続ける者は、徒らに心身を疲労させて何ら得るところがなく、ただ心を空しく消耗させているに過ぎない。意識が虚妄の快楽を貪ることは、一時的な心理的慰安を得るのみで、実際には何の益もない。存在しない人や事象に執着するこの識心の覚受は甚だ虚妄である。衆生は無始以来、実在しない人事物に執着し自ら苦悩を生じさせている。外相には本来何事もないのに、ただ我々の意識が幻想妄想を繰り広げている。天下元々事無く、庸人自ら之を擾わす。我々は皆庸人であり、外相を真実と錯覚し、心を絶え間なく動揺させ、実在しない事柄に自ら苦悩を求めているに過ぎない。

真に万法皆空・無相を証得すれば、心は動かなくなり、不動の心は清浄自在となる。不動心は寂滅楽を獲得し、これは一切の煩悩を離れた至高の歓喜である。世間人の楽しみには必ず煩悩が伴う。親族の団欒は煩悩であり、婚姻子育ての喜びも煩悩を生じ、苦悩を招く。これらは全て清浄自在ではない。しかし寂滅楽を修得すれば、不動の心には微塵の煩悩もなく、我々が現在想像し得る煩悩や情動のない心境は、真にその楽境を体得すれば、もはや世俗の境界に貪着する心は起こらなくなるであろう。

我々の阿頼耶識には本来一片の煩悩もなく、常に寂滅楽の中にある。何故ならば、眼あれど見ず、耳あれど聞かず、鼻あれど嗅がず、舌あれど嘗めず、身あれど触覚せず、意あれど法を思わず、一切の心境がないからである。しかしこれは愚鈍ではなく、阿頼耶識を証得していない者には理解し難く、我々が得る禅定の楽や、世間の親族団欒の喜び、栄達富貴の楽しみとは全く異質のものである。寂滅楽には一切の世間的歓喜がなく、世間の諸法を貪着せず、混乱も動乱もない。世間の楽しみは全て動乱の中にあり、寂静ならざるものであり、煩悩と苦悩に満ちている。

——生如法師の開示
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