衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2021年03月28日    日曜日     第4開示 合計3241開示

父子合集経講記(一七四)

六七は因中に転じ、五八は果上に円し

五陰の中で私たちが最も多く用いるのは六識と七識です。第六識とは、さまざまな思想、見解、感受、覚受、分別のことです。たとえば、ここで法を聞いている心が第六識であり、説法の内容が法塵となり、意根と法塵が接触すると、阿頼耶識 (Ālayavijñāna) が第六識を出生させます。神様は聞いた内容が何であるかを思惟・分析し、そして覚観 (vitarka-vicāra) と、法に対する明瞭・不明瞭の感受を生じさせます。衆生が生きている間は六識・七識が主であり、前五識は副次的なもので、それほど多くて複雑な識心の活動はなく、単に簡単で粗略な見る・聞く・嗅ぐ・味わう・触れるだけであり、細微な分別、感受、思いは第六識が主となっています。意根は作主する識であり、意根がなければ第六識はありません。私たちの五陰の活動はこの二つの識が主であり、修行も主としてこの二つの識を修するのです。この二つの識が徹底的に変われば、前五識も変わり、第八識の功能が完全に発揮されるようになり、そうすれば私たちは成仏するのです。

それなら、私たちの修行は真心を修するのでしょうか、それとも妄心を修するのでしょうか。真心は修する必要がなく、妄心の無明を断じ尽くし、煩悩を断じ尽くせば、真心は神様の本来の面目に回復します。私たちが悪業の種子を真心から清め出せば、真心は神様自身の本来の面目に回復し、私たちは一尊の仏となるのです。私たちは今まだ仏ではありません。それは阿頼耶識の中にまだ七識の無明と染汚業が含まれているからです。成仏には無数の無明を破除する必要があり、一つの道理を証得することを懂得すれば、一つの無明を破り、無明を破り尽くせば、仏道を円成します。修行の道とはこのようなものなのです。

——生如法師の開示
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