六七は因において転じ、五八は果において円満す
五蘊の中で最も多用されるのは六識と七識です。第六識とは様々な思想・見解・感受・覚受・分別を指します。例えばここで説法を聴く心は第六識であり、説法の内容は法塵となります。意根と法塵が接触すると、阿頼耶識から第六識が生起し、聴いた内容を思惟分析し、法に対する覚観や理解・不理解の感受を生じさせます。衆生の日常活動は主に六・七識によって営まれ、前五識は二次的なものです。前五識には複雑な識心活動はなく、単純で粗雑な視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚に留まり、微細な分別・感受・思考は第六識が主導します。意根は主体性を持つ識であり、意根がなければ第六識は存在し得ません。私たちの五蘊活動はこの二つの識を中心としており、修行の主対象もこの二識です。この二識が徹底的に転換されれば前五識も変化し、第八識の機能が完全に発揮される時、我々は仏となります。
では修行とは真心を修めるのか、妄心を修めるのか。真心は修める必要がありません。妄心の無明を断尽し、煩悩を滅し尽くせば、真心は本来の面目に復帰します。悪業の種子を真心から浄化すれば、真心は自らの本性を回復し、我々は即ち一尊の仏となるのです。現状が仏でないのは、阿頼耶識に七識の無明と染汚業が残存しているためです。成仏には無数の無明を打破する必要があり、一つの真理を証得するごとに一つの無明を破り、無明を破尽した時、円満に仏道を成就します。これが修行の道程です。
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